伝説紀行 地蔵渡し  高田町


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第247話 2006年03月05日版
再編:2017年12月17日

プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

戦国に散った兄妹

地蔵渡し由来

福岡県高田町


仲良く座る兄妹地蔵

 筑後(福岡県)と肥後(熊本県)を遮る筑肥山地を水源とする飯江川(はえがわ)の飯江地区と豆塚集落に跨る橋を、「地蔵渡し橋」と呼んでいる。橋の北側にはお堂が建っていて、中にはかわいい2体のお地蔵さんが祀ってあった。橋の名前は、どうやらこのお地蔵さんからきたものらしい。

人質をとられて手が出せず

 時は戦国時代最中の天正年間(1580年)。九州では、豊後の大友、佐賀の龍造寺、薩摩の島津など戦国大名たちが九州制覇を目指して凌ぎを削っている頃である。
 ここ肥後国の隈府(熊本)城内大広間では、重臣たちが重苦しい雰囲気の中で評定を続けていた。その間城主の赤星統家(あかぼしむねいえ)は一言も発しない。


地蔵渡し橋


 赤星家は、代々隈部氏・城氏とともに肥後菊池家の三大家老として君臨してきた家柄である。ところが、肥前佐嘉の龍造寺隆信による攻撃を受け、その幕下(輩下)に置かれる羽目になってしまった。その際、幼い継嗣を人質にさし出し、二心ない証を立てさせられてもいる。その継嗣の新六郎は、数えて14歳になるはずである。
「幕下たるもの、主人への挨拶は当然であろう」と、統家に対して佐嘉への参上を再三促すのだが、統家は龍造寺の誘殺を恐れて、のらりくらりとかわしてきた。

幼子2名の処刑宣告

 昨日の昼すぎ、武装した龍造寺の家臣数人が突然隈府城になだれ込んできて、庭で遊んでいる8歳になる安姫を浚っていった。翌日には、龍造寺隆信の名前で最後通牒が届いた。
「こちらの堪忍も限界に達した。本日中に統家自身が佐嘉城に赴かなければ、弥生3月7日の正午、飯江川河原にて人質2名と供の12名を飯江川河原にて処刑する」というものであった。飯江川は、佐嘉と肥後隈府の中間地点にあたる。
 隈府城内は、一挙に緊張が高まった。
「若君だけでは気がすまず姫君までもお命を絶とうとは…。龍造寺には人間の血が流れておらぬとみえる」。一人が息巻けば、次なる者も、「かくなる上は、力ずくで若君と姫君を取り返そうぞ」と続いた。


地蔵堂


「ここで自爆しては、親代々、これまでの苦労や忍従が泡と消える。ここは余に任せてくれい。庭番の嘉助夫婦をこれへ」
 赤星統家は、沈痛な中にも冷静に彼我の関係を分析していた。評議の場に呼ばれた庭番の嘉助・タマ夫婦に、城主はある重大な役目を言いつけた。

磔台でも親に別れを

 嘉助とタマは、百姓姿で肥後と筑後の国境を越えた。
「いかなる場合でも、滅多な行動にでてはいけんぞ」
 嘉助は女房に、城主から言い含められたことを何度も繰り返した。夫婦にとって、安姫は自分の子供以上にかわいい存在であった。その幼子が、2年前に人質として佐嘉に連れて行かれる兄新六郎を慕って、泣きじゃくったことを思い出す。兄が14歳、妹が8歳。「将来ある兄妹の命が絶たれる現場を検証してこいとは、お殿さまも意地の悪いこと」、飯江村行きを言いつけられた後、夫婦は愚痴ったり泣いたりの毎日であった。
 河原には、十重二十重と人垣ができていて、その中央に14台の貼り付け台が並べられていた。やがて、後手を縛られて裸馬に乗せられた新六郎が刑場に到着し、続いて安姫と供の者12人が十字の貼り付け台に縛りつけられた。さすが兄は冷静に前を見つめたままであったが、妹は「兄上、恐い」を連発して泣きまくった。
 長槍を持った執行侍が今まさに5人の胸をめがけて突き刺そうとするその時、新六郎が叫んだ。
「刑台を父母のおわす南に向けてくれ。両親にお別れを言いたい」
 このとき、たまらず飛び出しそうとするタマを嘉助が慌てて止めた。もちろん、新六郎も安姫も、人ごみの中の嘉助夫婦に気がついてはいなかった。

幼子供養の地蔵が渡しの名前に

 刑は執行され、飯江河原の砂は、人質と供の血で染まった。磔台は、役人たちが立ち去った後も、3日3晩河原に晒された。目に涙しながら幼い兄妹の最期を見届けた村の衆も、1人2人と帰っていき、気がつけば嘉助とタマだけが取り残されていた。
「おかわいそうに」、泣き疲れて涙も涸れ果てた夫婦は、「ナムアミダブツ」のお題目を唱えながら、兄妹と供・女中の亡骸から遺髪を切って用意した袋に納めた。
 刑台と死骸が片づけられて、嘉助とタマはやっと河原を後にした。百姓姿の2人の行動を怪しむものはいなかった。
 幼い兄妹の最期を見届けた村人は、それからしばらくは野良仕事も手につかなかったという。気を取り直して、河原の傍に14個の石塔を建て、川辺に咲く花を手向けた。
「さぞや、飯江川のずっと南の、親御さんのおわす肥後に帰りたかったろうに」
 心ある方がお堂を建て2体の地蔵尊を祀ったのが、今も飯江川の岸辺に建つ地蔵堂だとか。それから処刑場の河原を、誰言うとなく「地蔵渡し」と呼ぶようになった。その後立派な橋が架けられて、「地蔵渡し橋」と名づけられた。

 嘉助から新六郎と安姫の遺髪を受け取った赤星統家は、「必ず父がそなたらの恨みを晴らすゆえ、許せ」と、声を振り絞った。
 龍造寺憎しの心情が高まる赤星統家は、間もなく薩摩の島津義久と手を組み、龍造寺隆信と真正面から対決することになる。
 天正12(1584)年3月、島津と龍造寺の合戦は島原の地で展開された。もちろん、薩摩方の先陣を切るのは隈府の赤星統家である。
 九州制覇を目指して、人情をかなぐり捨てた龍造寺隆信の運もここで果てた。没年齢は54歳だったという。(完)

 いたるところに紅梅・白梅が咲き誇る飯江川周辺に出た。400年前の悲劇の場を確認するためである。護岸が整備されていて、当時を偲ぶことは無理だったが、岸辺の2体のかわいいお地蔵さんが、辛うじて雰囲気を提供してくれた。
 龍造寺隆信が、本拠の佐嘉城から100キロもある場所で兄妹を処刑したのはなぜなのか。筑後の大半を支配下に置いた自信を宿敵大友や島津に見せ付けたかったのか。はたまた、せめて赤星統家に愛子の最期を見せてやろうとの親心であったのか。地下に眠る本人に直接質してみたいものだ。
 橋の袂に佇んでいると、川上からゆっくり歩いてきたお婆さんが立ち止まり、兄妹地蔵さんに深々と頭を下げて通り過ぎていった。
 

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