伝説紀行 市の塚史跡 筑後市
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僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。 |
平家は筑後でも戦った 福岡県筑後市
筑後市中心部から国道209号を南に進むと、花宗川岸辺に由緒ありそうな「二本松白瀧神社(にほんまつしらたきじんじゃ)」を見つけた。境内には「玉鶴霊社」と書かれた大きな石碑が置かれている。この地は、古くは「平家堂」と呼び、平家の落人伝説が伝えられているところ。白瀧神社から更に南へ1キロあまり、船小屋温泉のすぐ手前の「尾島」交差点そばには、「市の塚」という名の落人遺跡もあった。 軍団を追って平家の姫が 時は、壇ノ浦の合戦(1185)で平家が滅亡してから20日も経たない頃の昼下がりであった。ここ二本松の村(現筑後市)に、女一人と供侍風の男5人が通りかかった。一行は歩くのもやっとといった疲れようである。
「ちと、ものを尋ねるが…」、農作業中の夫婦に、供侍の一人が声をかけた。 追手との死闘が筑後路で 「命耐えて井手の濁り水に顔を突っ込むもの、命からがら逃げ回る者、それは一言では言い表せない壮絶な戦いでした」 侍大将は辞世を残して 時助たち村人は、死臭が充満する中で、集めた遺体を丁寧に埋葬した。一つ一つの墓の土盛には、今まさに満開の桜の枝を手向けた。土盛した墓の数は、全部で56基にもなったという。
「して、…その中に重ね菱の紋の鎧を着た武士を見なんだか?名前を浅山小次郎と申すのじゃが」 絶望の姫は… 「夫を埋めた墓はどこじゃ?」 尾島交差点そばの「市の塚」史跡を訪ねた。「塚といっても、形はないですよ。今では敷地全体が地名(字)になっていますから」と市役所の文化財担当の人が教えてくれたことを思い出した。なるほど、銀杏の古木の向こうにいくつかのお堂や祠が建ち、供養塔と地蔵群が見える向こうは、公民館があるだけの静かな空間であった。 |