伝説紀行 名馬池月の塚  小郡市


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第245話 2006年02月19日版
再編:2017.04.30 2018.03.25
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

名馬池月の塚

福岡県小郡市


名馬池月塚(小郡市味坂)

 小郡市内の味坂というところに、「名馬池月塚」が祭ってある。馬のお墓としてはなかなか立派なものだ。それもそのはず。塚に眠るのが、かつて源頼朝の持ち馬であった「名馬池月」だから。
 その後、家臣の佐々木高綱に下げ渡され、佐々木は池月に乗って、「宇治川の合戦(1184年)」で木曽義仲と戦った。激流逆巻く中をものともしない池月の働きで、彼は先陣をきることができた。さて、天下に名を轟かせた源頼朝縁(ゆかり)の馬が、どうして筑後の宝満川辺に葬ってあるのか。はたまた、「池月」が名馬と言われる所以は何なのか。

頼朝に貰った「池月」

 時は、壇ノ浦で平家が滅亡して、鎌倉幕府が成立して間もない頃である。アジカモが乱れ飛ぶ鯵坂荘(あじさかのしょう)の宝満川岸に、美しい栗毛(馬)の「池月」に乗った武将が立った。佐々木四郎高綱である。鎌倉幕府成立(1186年)以来、大将頼朝から絶大なる信頼を得てきた男だ。幕府の命により大宰府に着任し、700町歩の土地と館をあてがわれた。館には、高綱の身の回りの世話をする娘が1人ついている。
 ひときわ立派な馬小屋に住む池月は、頼朝公から軍功褒賞として賜ったもの。絶対に粗末にできない名馬なのだ。
 高綱は、閉じ込められていた伊豆を脱出した頼朝(1180年)を援け、数々の軍功をたててきた。頼朝追討の平惟盛軍と死闘を演じた「富士川の戦い」や、清盛没後に頼朝が木曽義仲を追い詰めた「宇治川の戦い」など・・・。その後も、屋島から壇ノ浦へと転戦して、遂に宿敵平家を滅亡に追い込んだのも彼の功績が大であった。

人の情けを知る名馬

「池月の名前の由来を聞かせてくださいませ」
 身の回りの世話が高じて妻になった花子が尋ねた。
「頼朝公がおっしゃるには、池月の生まれは阿波徳島の重清村(現在の美馬町)だとか。生まれたときからたいそう元気のよい馬だったらしい」
「それで、宇治川でのお働きの折に急流を泳ぎきって、梶原景季さまとの先陣争いに勝たれたのでございますね」
「さよう、池月がいなかったら、今のわしもなかったであろうな」
 池月が名馬といわれるのは、畜生でありながら、人間の気持ちに共通していることだった。生まれて間もなく、母馬が近くの池に落ちてあえない最期を遂げた。月のきれいな夜であった。子馬は自分の姿が水面に映っているのを見て、愛しい母が戻ってきたと思い飛び込んだ。そんなことを何度も繰り返すうちに、水を恐れない強い馬に生長していったという。
 そんなことがあって、子馬には「池月」という名前がつけられた。

慕われて仏の世界へ

 時は流れて、高綱と花子の間に生まれた三蔵利綱が10歳に成長した。その頃、高綱には幕府から鎌倉に戻るよう命令が下された。これから利綱を鯵坂の地で強い武将に育てようと考えていた矢先のことであり、高綱は悩んだ。
「わしは一人で鎌倉に向かう。利綱が元服する頃に連れてくるよう」
 花子と家来たちに言い置いて、単身鎌倉に向かうことになった。今で言うサラリーマンの単身赴任である。宝満川の渡し舟に乗り込んだ父を、池月に跨った利綱がいつまでも見送った。その颯爽とした姿を見て、高綱は安堵した。


宝満川

 だが、高綱の願いのように息子や池月が鎌倉に上ることはなかった。15歳、20歳と成長する利綱は、政庁においても鯵坂庄においても、なくてはならない人物になっていったからである。池月に跨って庄内を回る利綱に、村人は心から尊敬の挨拶を送った。また、輝くばかりの栗毛をなびかせる池月を見て、「仏の再来」とばかりに傾倒した。

 そんな池月にも寿命という運命は避けられなかった。村人は、仏のもとに無事帰れるようにと、鯵坂庄内に墓を築き、懇ろに葬った。その墓が、現在養護老人ホーム「池月苑」裏手の畑の中にある「名馬池月塚」だそうな。(完)

 小郡市鯵坂は、筆者の父方のルーツである。子供のころに親類のお兄ちゃんと遊んだあたりに、「名馬池月塚」は建っていた。何十年ぶりかにあたりを歩いてみたが、氏神さまのほかにはほとんど甦るものはなかった。当時は、累代の墓もそこにあったはずなのだが、今では寺の名前すら忘却の彼方に遠ざかってしまっている。
 さて【名馬池月】についてだが、改めて調べると、北は東北の遠野から本編鯵坂の庄まで全国にそのお話しが伝わっている。代表的なのが、源頼朝が武蔵国の洗足池に立ち寄った際、池の水面に映える美しい駿馬が現れたので捕らえて「池月」と命名したというもの。 洗足池とは、東京大田区にある大池のことで、日蓮上人が御足を洗われたということで有名。池のほとりには、「池月の像」まで飾ってある。現在の洗足池駅をその昔「池月駅」と言っていたように記憶しているのだが・・・。
 九州の「鯵坂説」もまんざらでもなさそう。すぐ近くの大宰府の存在が、このお話しの説得性を補強してくれる。鯵坂村内を流れる宝満川は、大むかしから交通の要衝として欠かせない河川であった。特に奈良時代以降には、筑後特産の綿布や穀物などが、小郡地区の川港で積み込まれて筑後川を経て都に運ばれたというからである。陸上においても、博多から小郡を経て長崎や肥後・薩摩へと人の流れがつくられた。
 土地の先人たちは、九州や筑後が埋没しないよう、有名な池月に託したのかもしれないな。
なお、池月の生まれ故郷である徳島県美馬市美馬町には、「池月の母馬の墓」が祭ってあるということです。

読者(大学講師)から、「名馬池月の塚」について貴重なご意見をいただきました。ありがとうございました。

 池月が有名なのは、『平家物語』後半の名場面に登場するためですね。佐々木高綱が騎乗し、梶原景季(景時の子)の乗る磨墨(するすみ)号と、宇治川渡河をめぐって先陣争いをします。
 これには前段があり、景季は頼朝に池月を所望したのですが、手放すのを惜しがった頼朝が代わりに磨墨を下賜しました。ところが、頼朝に古くから仕えている高綱がどうしてもというので、池月をやってしまう。面目を失った景季が高綱と池月に強烈なライバル意識をもって臨んだというのもうなずけます。
(と、これは文学の話。歴史的には、先陣の功名を挙げて新しい領地を給付してもらうための働きです。『義経』を見ていたら、義経に心酔しかかった景季に父景時が「九郎どのは領地とかかわりないから勝手な戦ができる」と諭す場面が出てきて、なかなか本質をついているなと思いました)
 人口に膾炙した池月命名の由来は、池に浮かぶ月のような毛並みだったから、と、こちらは月並みなおはなしです。
さて【名馬池月】についてだが、改めて調べると、北は東北の遠野から本編鯵 坂の庄まで全国各地にそのお話しが伝わっている。代表的なのが、源頼朝が武 蔵国の洗足池に立ち寄った際、池の水面に映える美しい駿馬が現れたので捕ら えて「池月」と命名したというもの。洗足池とは、東京大田区にある大池のこ とで、日蓮上人が御足を洗われたということで有名。池のほとりには、「池月 の像」まで飾ってある。現在の洗足池駅をその昔「池月駅」と言っていたよう に記憶しているのだが…。
 池月駅を称していたのは現在の大井町線北千束駅です(1928-30年の間)。ちなみに千束のほうが古い地名で、洗足は日蓮伝説をあとからかぶせたもの。
 九州の「鯵坂説」もまんざらでもなさそう。すぐ近くの大宰府の存在が、こ のお話しに説得性を補強してくれる。鯵坂村内を流れる宝満川は、大むかしか ら交通の要衝として欠かせない河川であった。特に奈良時代以降には、筑後特 産の綿布や穀物などが、小郡地区の川港で積み込まれて筑後川を経て都に運ば> れたというからである。陸上においても、博多から小郡を経て長崎や肥後・薩 摩へと人の流れがつくられた。
 土地の先人たちは、九州や筑後が埋没しないよう、有名な池月に託したのか もしれないな。
 そうですね。
 佐々木高綱は近江源氏の名門で、平家物語に描かれるように「武士の鑑」のような人物だったのと、壇ノ浦合戦ののち全国を放浪したとされるため(おそらくは頼朝の命を受けて西日本の武士団を幕府の元に編成するためのオルグ活動)、各地に伝説が残されています。一時期、長門探題として下関あたりにいたらしいので、そういう影響もあるかもしれません。
 なおご存じとは思いますが、もう1頭の名馬磨墨のほうは、景季によって彼の屋敷に葬られ(現在の万福寺付近)、「馬込」(東京都大田区馬込)の地名のもとになったと伝えられています。

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