伝説紀行 チリンチリン土堤 うきは市(吉井町)
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僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。 |
チリンチリン土居 福岡県吉井町(現うきは市)
うきは市役所庁舎(旧吉井町)裏手を、土地の人が「五庄屋川(ごしょうやがわ)」と呼ぶ水路が通っている。子供の頃、水路の土堤(どて)は恰好の滑り台だった。「戦中・戦後」を経験した年配者にとって、思い出がいっぱい詰まった「チリンチリン土居」でもあった。 遍路さんが鈴を鳴らして… 江戸時代も終わりの頃だったか。れんげの花が咲く小径を恵蘇の宿(えそのしゅく)方面から「チリンチリン」と腰に下げた鈴を鳴らしながら、一人の男遍路がやってきた。遍路は、年齢(とし)の頃なら40歳前後だろうか、白い杖を頼りにやっとの思いで歩いている。美津留川脇に建つ一軒家の前に立って、詠歌を唱えて銭を乞うた。
「はい、私めは星野の出で茂吉という者でございます。若い頃の悪さが祟って、目が見えなくなってしまいました。父は、「お大師さまのご慈悲にすがれ」と言って、四国八十八箇所へ送り出しました。それからでございます。この杖だけを頼りにしての八十八か寺を巡ったのは・・・」 若い時の悪さが祟って どうせ死ぬなら、もう一度ふるさとの空気に触れてから・・・の思いが、やっとの思いで筑後の大川を越えさせた。 鈴を残してあの世へ 「こんなにうまい飯は、いつ食べたきりだろう」 茂吉の亡骸は、村人たちの手によって、無縁仏として葬られた。それからというもの、五庄屋川のほとりでは、夕刻になるといつも「チリンチリン」と涼しげな鈴の音が聞こえるようになった。五庄屋川の堤防のことを「チリンチリン土居」と呼ぶようになったのは、それからである。(完) 遍路が不遇の死を遂げたという用水路の堤防に立った。たまたま通りかかったお爺さんに話しかけた。 |