伝説紀行 おふろうさん祭り 大川市
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僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。 |
おふろうさん 大川市
大川市民の守り神といえば、「おふろうさん」の名前で親しまれる風浪宮でしょう。ご祭神は少童命(わだつみのみこと)だそうな。大鳥居を潜った先に鮮やかな朱色の神殿が見えてきた。このお宮さん、神代(かみよ)のむかしの神功皇后(じんぐうこうごう)に由来するとか。とりわけ、本殿脇に立つ楠の古木は、「鷺見の楠」といって「由来」のもとをなす神木であると説明が施されている。末尾「説明」参照 神を乗せた馬が倒れた 時は神功皇后の神代からさらに1000年以上も下った慶安(1648〜52)の御世。筑後国榎津村(現大川市榎津)では、年に一度のおふろうさんのお祭りで、男たちの気持ちが押さえようもなく昂ぶっていた。
前後を従者に護られて、神馬に乗ったご祭神が街中に出て行かれる丁度その時刻。お見送りする善成の眼前でとんでもないことが起こった。祭神を乗せた神馬が地面に膝を折ったまま倒れ込んでしまったのである。口からは白い泡を吹いている。縁起でもない事態の勃発であった。 神の間近に汚れしものが 「神に仕える者か、それとも…」、隣で震える神官の独り言が、善成の心を大津波のように揺るがした。 覡師の馬が神馬に命を 間もなく、倒れていた神馬が嘶(いなな)きとともに立ち上がり、何事もなかったように歩き出した。行列は大川(筑後川)のほうに向かって静々と進んでいった。
それからである、風浪宮の神官をはじめ宮乙名(みやおとな)や祭典に携わる人が、祭りの月に入ると油ものや獣肉を一切口にしなくなったのは。近年になって、やはり流鏑馬の御者がそんな言い伝えを知らずに獣肉を食べたために落馬したという話しも聞いた。(完)
神官などが今も祭りのときに獣肉を食べないかどうか、未だに調べが及んでいない。風浪宮を訪ねたのは、秋も深まった時期であった。神殿の脇の巨木には、「鷺見の大楠」と記されて次のような説明がなされていた。 「社伝によると、神功皇后が…ご帰還の洋上で暴風の難に遭いながらも、少童命(わだつみのみこと)のご加護を得て無事に葦原の津、現在の榎津(得の津ともいった)に着かれたといわれる。その折、皇后の御船のあたりに忽然と現われた白鷺をご覧になった皇后が、あの白鷺こそ我を風浪の難から守護し給うた海神少童命の化身なりとして、武内宿祢にその後をつけさせられた。 境内と道一つ挟んだところに「大川公園」がある。入り口に置かれた御影石には、古賀政男の処女作「影を慕いて」の歌詞と音符が示されていた。そうなんだ。大川市はあの偉大なる作曲家・古賀政男を生んだ町でもあったのだ。 |