伝説紀行 志岐家のチマキ  大川市


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第235話 2005年11月27日版

2008.03.09 2016.11.05 2019.02.10
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 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

志岐家のちまき

島原の乱異聞

福岡県大川市


志岐一族縁の榎津付近

 筑後川下流域の大川市では、志岐の姓を持つお方によく出会う。有名な蒲鉾屋さんや家具屋さんなど。ものの本によると、志岐さんのルーツは熊本県の天草にあるそうな。そこで天草の地図を開いたら、天草灘を望む苓北町(れいほくちょう)付近に志岐なる地名が仰山出てきた。苓北町の中央を流れる中尾川を挟んで、ダムも港も道もお宮さんも、志岐のオンパレードである。その志岐群の真ん中に志岐城址が座っている。
 ご存知のとおり、天草は戦国時代以降大名から庶民までキリシタンで占められた群島であった。中でも志岐家は、下島の領主として名門中の名門である。それゆえに、真っ先に戦乱に巻き込まれ、宗教弾圧の嵐も甘んじて受けなければならなかった。
 そして江戸時代。徳川家光によるキリシタン弾圧の最中に起こった「島原の乱」。散り散りになっていた志岐さんが、幕府あげての追及を逃れて、更に分散することに。
 その時はるか筑後川ベリまで逃れてきた志岐さんの一族は、絶対にチマキを食しないというから不思議だ。筑後地方では子供の節句などお祝いには欠かせない食べ物だというのに。

チマキ(粽):古くチガヤ(茅)の葉で巻いたからこの名前がある。端午の節句に食べる糯米(もちごめ)・粳(うるち)米粉・葛粉などで作った餅。長円錐形に固めて笹や菰などの葉で巻き、藺草(いぐさ)で縛って蒸したもの。(広辞苑)

川原の子供がチマキを盗んだ

 時は1600年代半ばのこと。久留米藩領の榎津町(現大川市)を流れる花宗川の水辺に、粗末な掘っ立て小屋を立てて暮らす家族があった。彼らがどこから来て、どんな過去を持つ人なのやら地元の人も知らない。
 男が小舟で漁をして、女が街に売りに行く。薄汚いなりをしての行商に、街の者はなかなか客になろうとしなかった。
 ある時、小屋に住む男の子が、民家に忍び込みチマキを盗んで食った。そのことを知った父親の又兵衛は、息子の身代わりに自ら代官所に出向いた。
「その方、榎津に来る前はどこにいたのか。どちらの家臣であったか」
 役人の取り調べは、それは厳しいものであった。
「いえ、私奴(わたくしめ)はもともとから漁師でございます。理由(わけ)あってあちらこちらの港を渡り歩いておりますが・・・」
 そこまで答えたところで役人の癇癪玉が破裂した。
「榎津の奉行を愚弄するでない。いかにボロを着て漁師に化けていても、その方がれっきとした武士であることくらいお見通しじゃ。他藩で罪を犯し、法度を犯して我が藩に侵入したのであろうが」

身代わりの父は殺され…

 こちらは、又兵衛の留守宅。寂しく主人の帰りを待っているその時、戸板に乗せられた又兵衛の遺体が運び込まれた。
「芳輔、これから話す母の言葉をよく覚えておくのですよ」
 妻の八重は、他家のチマキを食べた息子を正座させて、神妙に語り始めた。
「私たちの家の名前は、天草をふるさとに持つ志岐と言います」
 志岐家はもともと、天草五島の中の領主であった。鎌倉時代に分家してからは家老、その後再び分家した後も、志岐城において領主を補佐する重要な役目を担ってきた。
 志岐城は、豊臣秀吉の時代に宇土城主となった小西行長と対立したため、隈本(熊本)城の加藤清正によって押しつぶされてしまった。領主の志岐麟泉(鎮経)は薩摩の島津へ、養子の継嗣親弘は実家である島原の有馬家に避難した。


天草群島を背に筆者

 家来衆や大半の領民が小西行長の家来に身を移す中で、又兵衛の父だけは、志岐一族の再興を胸に、家族とともに城から離れた元袋の海岸に移った。

天草盟主の誇りは捨てない

 見よう見真似で覚えた漁の仕事にも必死で耐えた。その父も他界し、息子の又兵衛が家族の長になって間もなく、今度は島原の乱である。
 乱の原因は、藩の重臣が天草の石高を実際の2倍にして幕府に報告したことにあった。そのために、年貢も2倍になり、農民、漁民たちをして不満が爆発した。


写真:ご子孫かな?蒲鉾屋さん

 そこに、島原半島でのキリシタン弾圧や浪人の反乱などが重なり、原城に立て籠もっての一揆に発展した。宇土(現熊本県宇土市)の若者益田四郎(天草四郎時貞)を盟主に仕立てた一揆軍は、有馬氏の居城であった原城に立て籠もって、十数万の幕府軍と対峙した。
 天草の農民も大挙して天草灘から島原半島へ、生きて帰ることなど考える術もなく発っていったのである。
 やがて一揆軍の壊滅をもって島原の乱は終結する。天草で待機する志岐又兵衛のもとには、幕府軍の追っ手が天草島にも上陸するという噂が届いた。又兵衛は、家族とともに島を離れて流浪の旅に。

 たどり着いたのが、筑後川下流の榎津村だったというわけ。
「よいか芳輔。そなたの父上は、志岐家の誇りを捨てまいと、そなたの身代わりとなって果てられた。これからは、いかに腹がへろうとも他人のものに手を出したり欲しがったりするでないぞ」
 母八重は、息子を諭した夜、一人大川に飛び込んで帰らぬ人になった。
 それからというもの、花宗川原の志岐の残党は、どんなことがあってもチマキを食べなくなったと言われる。あるとき、どこかの家でチマキを蒸そうとしたが、どうしても蒸れないこともあったとか。(完)

榎津:榎木津とも書く。筑後川下流に注ぐ花宗川の左岸に位置する。地名の由来については、神功皇后が朝鮮から戻った際の「津を得た」が訛ったものという伝説がある。また榎木に由来して、船がこれを目標にして入港したためとか。願蓮寺開祖の榎津久米之介の名にちなむとも言う。
榎津町:江戸期〜明治22年の町名。島原の乱では、ここから軍兵が出動した。

 9年前の1996年、苓北町長の呼びかけで、全国に散らばる「志岐さん」が大集合されたことがある。その数96人が、遠い昔に思いを馳せながら交流を深めたそうだ。僕も参加したかったな。天草に行っても、なかなか下島までは足を伸ばせなかったが、今度こそ志岐城址を訪ねるぞ。 大川市に出かけたのは、2005年の秋も深まった午後であった。町中にクリークが走っているし、昔ながらの狭い路地が連なる風景は、やっぱり古い港町である。川岸に立つ「志岐蒲鉾本舗」に立ち寄って、出来立てのかまぼこを買った。又兵衛さん(筆者がつけた役名)以来の伝統の味なのかもしれない。そう思って、風浪神社の境内で口にした。本場で食べると、かまぼこの味もまた格別だ。写真は、榎津の水天宮
 志岐さんといえば、現役時代に、「善人」を絵に描いたような先輩がいた。でも、その先輩は悪い病に犯されて早く亡くなってしまった。また、税金を無駄遣いして1本何百万円もする欅の木や庭石を購入した悪い役人もいた。この方は「俺は悪くない」と言いはって反省のかけらも見せない。人生いろいろ、志岐さんもいろいろだ。

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