伝説紀行 志岐家のチマキ 大川市
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僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。 |
志岐家のちまき 島原の乱異聞 福岡県大川市
筑後川下流域の大川市では、志岐の姓を持つお方によく出会う。有名な蒲鉾屋さんや家具屋さんなど。ものの本によると、志岐さんのルーツは熊本県の天草にあるそうな。そこで天草の地図を開いたら、天草灘を望む苓北町(れいほくちょう)付近に志岐なる地名が仰山出てきた。苓北町の中央を流れる中尾川を挟んで、ダムも港も道もお宮さんも、志岐のオンパレードである。その志岐群の真ん中に志岐城址が座っている。 チマキ(粽):古くチガヤ(茅)の葉で巻いたからこの名前がある。端午の節句に食べる糯米(もちごめ)・粳(うるち)米粉・葛粉などで作った餅。長円錐形に固めて笹や菰などの葉で巻き、藺草(いぐさ)で縛って蒸したもの。(広辞苑) 川原の子供がチマキを盗んだ 時は1600年代半ばのこと。久留米藩領の榎津町(現大川市)を流れる花宗川の水辺に、粗末な掘っ立て小屋を立てて暮らす家族があった。彼らがどこから来て、どんな過去を持つ人なのやら地元の人も知らない。 身代わりの父は殺され… こちらは、又兵衛の留守宅。寂しく主人の帰りを待っているその時、戸板に乗せられた又兵衛の遺体が運び込まれた。
家来衆や大半の領民が小西行長の家来に身を移す中で、又兵衛の父だけは、志岐一族の再興を胸に、家族とともに城から離れた元袋の海岸に移った。 天草盟主の誇りは捨てない 見よう見真似で覚えた漁の仕事にも必死で耐えた。その父も他界し、息子の又兵衛が家族の長になって間もなく、今度は島原の乱である。
そこに、島原半島でのキリシタン弾圧や浪人の反乱などが重なり、原城に立て籠もっての一揆に発展した。宇土(現熊本県宇土市)の若者益田四郎(天草四郎時貞)を盟主に仕立てた一揆軍は、有馬氏の居城であった原城に立て籠もって、十数万の幕府軍と対峙した。 たどり着いたのが、筑後川下流の榎津村だったというわけ。 榎津:榎木津とも書く。筑後川下流に注ぐ花宗川の左岸に位置する。地名の由来については、神功皇后が朝鮮から戻った際の「津を得た」が訛ったものという伝説がある。また榎木に由来して、船がこれを目標にして入港したためとか。願蓮寺開祖の榎津久米之介の名にちなむとも言う。 9年前の1996年、苓北町長の呼びかけで、全国に散らばる「志岐さん」が大集合されたことがある。その数96人が、遠い昔に思いを馳せながら交流を深めたそうだ。僕も参加したかったな。天草に行っても、なかなか下島までは足を伸ばせなかったが、今度こそ志岐城址を訪ねるぞ。 大川市に出かけたのは、2005年の秋も深まった午後であった。町中にクリークが走っているし、昔ながらの狭い路地が連なる風景は、やっぱり古い港町である。川岸に立つ「志岐蒲鉾本舗」に立ち寄って、出来立てのかまぼこを買った。又兵衛さん(筆者がつけた役名)以来の伝統の味なのかもしれない。そう思って、風浪神社の境内で口にした。本場で食べると、かまぼこの味もまた格別だ。写真は、榎津の水天宮 |