血染めの宝塔
書きかけのお題目
佐賀市(大和町)
大和町の川上峡岸に「宝塔山親正寺」なる寺院が建っている。急階段を登って本堂の裏手にまわると、そこには身の丈よりはるかに大きな岩がどっかと座っていた。岩には何やら文字が彫られてある。よくよく見ると、「南無妙法蓮華経」と読めるのだが、真ん中の「蓮」の字が完全に彫られていない。しかも、「華経」の文字とは、明らかに別人の書である。
寺では、この岩の文字を「書きかけのお題目」、または、「清正公槍先のお題目」と呼んでいる。
お題目:日蓮宗の「南無妙法蓮華経」の七文字の称。
清正公:加藤清正の尊称
寺の由緒には、上段が日蓮宗の日親上人のものであり、下段の「華経」はあの有名な加藤清正の筆になると記してある。
後の世になって里人は、これを「日親上人血染めの宝塔」とも呼び、「日親上人」なる僧の足跡を強調している。
お題目を刻み付けた日親上人とはいかなる人物か。はたまた、時代も立場もかけ離れる上人と加藤清正とは、いかなる因果で結ばれているのだろうか。
百姓が殿さまに呼び出され
ときは文禄元(1592)年の秋も深まった頃。河上村の茂平の家に、突然顔中髭むじゃの武将が入り込んできた。写真は、宝塔山親正寺
茂平は、睨みつける目の前の大男に慄いた。
「すまぬがしばし我らが大将の話し相手を勤めてはくれぬか」
武将は、顔に似合わず優しい声で茂平に頼みごとをした。
「して…、貴方さまは?」
「肥後の加藤清正公の筆頭家来、森本義太夫と申す。我らは唐津の名護屋城に向かう途中である」
加藤清正なる人物は、今や天下人として自他ともに認める豊臣秀吉子飼いの大名である。
「して…、名護屋城には何ごとで?」
「朝鮮に渡って、向こうの王を懲らしめるためよ」
歩きながら森本の話を聞く茂平には、そのわけがわからなかった。
巨岩に不思議な題目が
茂平は、河上川(嘉瀬川)の川原に張られた陣幕の中に通された。幕の外では、鎧兜の立派な形をした武将から竹槍だけの雑兵まで、川原いっぱいに寝そべっている。肥後の熊本城を出て日に夜を継いで野山を駆け、人も馬も疲れきっているのだという。
森本儀太夫に比べて、なおいっそう顔中が真っ黒な髭に覆われた加藤清正が、立ち上がって茂平を迎えた。
「ここまで来て、余の栗毛が突然立ち止まって膝をつき、それから先一歩も動こうとしないのじゃ。何ごとかと思い、馬を降りるとほらあそこの大きな岩が目に入った。岩に絡み付いている蔦を払いのけたら、『南妙法蓮』の勿体ないお題目が浮かび上がったのさ。『南無妙法』の次の『蓮』の文字が書きかけで、『華経』の文字が完全に落ちているではないか。何故じゃ? 地の者なら知っておろう、そのわけを」
加藤清正が熱心な日蓮宗の信者だとは、茂平も聞いていた。
作者は室町の岩窟王
「実は…、150年以上も前のことだそうでございます」
茂平は、小城に建つ光勝寺の住職に聞いた話を思い出していた。
「京の都からやってきた日親という若いお坊さんが、命がけで彫られたお題目だと聞いております」
「それが、どうして書きかけなのじゃ?」
「はい。日親上人は、街に出て日蓮さまの教えを説いて回られていたのでございます。お坊さまは、日蓮宗鎮西総本山である光勝寺が衰退していくのを見るのが辛かったのでございましょう。辻説法の間にも、寺を護るべき方々の堕落ぶりを批難されたようでございます。そこで、皆さまは、日親さまを寺から追い出そうと試みなされた。それでも怯まないことを知ると、今度は刺客を遣わして…」
「殺そうとしたのじゃな?」
「はい、日親さまは必死で逃げられ、河上川にたどり着かれて…。日蓮さまの救いを求めようと、あの大きな岩に立ち向かわれたのだとお聞きしました」
書き足した清正公
「そこにも追っ手が迫ってきて、お題目を彫り上げることができなかったのか?」
頷きながら茂平の話を聞いていた加藤清正は、「有り難いお題目をこのままにしておくのはもったいない。あとはこの清正が…」と、槍先で次なる「華経」の文字を付け足した。写真:水嵩を増した嘉瀬川
「誰かここに残って石工を捜し、余の下書きに沿って彫らせるのじゃ」
言い残すと清正は、再び大軍を率いて名護屋城を目指した。
以後里の人たちは、これを「書きかけのお題目」と呼ぶようになった。また、清正の馬が立ち止まって膝を折ったことにちなんで、「膝折坂の宝塔山(ひざおりざかのほうとうざん)」とも呼んだ。
「あれほど、日蓮さまの教えを大切になさるお殿さまであれば、きっと朝鮮での戦でもご活躍なさるでしょう」
身に余る褒美を貰った茂平は、途端に加藤清正のファンになった。その後の加藤清正は、名護屋城に陣取る豊臣秀吉の命令のもと朝鮮に渡り、小西行長らと全軍の指揮をとった。これが世に言う文禄・慶長の役である。(完)
文禄・慶長の役:1592年(文禄元年)・97年〜98年(慶長2〜3年)に、豊臣秀吉のもと2度にわたった朝鮮侵略戦争のこと。秀吉は大陸征服を企て、李氏朝鮮が明侵入の道案内を拒絶したのを怒って出兵。宇喜多秀家を総帥、加藤清正・小西行長を先鋒として平壌(ぴょんやん)まで進出。民の援軍を碧蹄館の戦いに破り、講和となった(文禄の役)が、秀吉は明の国書中に『日本国王に封ず』とあったのを怒り、97年再び開戦となった。
翌年秀吉の死により撤兵(慶長の役)。豊臣氏の滅亡を早めたが、朝鮮活字の輸入により書籍印刷(活字印刷)、捕虜にした陶工による陶磁器の発達などをもたらした。
しかし朝鮮では、「壬辰・丁酉の倭乱」といわれて国土の破壊と社会の混乱を招いたと批難している。(数研出版刊「日本史事典より)
お題目を書きかけのままで退散した日親和尚について:佐賀県小城町のバイパス沿いに建つ松尾山光勝寺は、日蓮宗の鎮西総本山として、文保元(1317)年に日祐という京の僧が開山したといわれる。西日本に初めてお題目の信仰を広めた古刹である。その後衰退した寺を再興すべく、京都からやってきたのが弱冠27歳の日親和尚であった。日親は、時の将軍足利義教から厳しい弾圧を受けても怯まなかった根性の持ち主として知られる。弾圧で焼けた鍋を頭に被せられても、転向しなかったことから、「鍋冠日親」ともうたわれた。
日親上人は82歳で没したが、九州の宗門発展の基礎を創るのみならず、日蓮宗の宗門史の上においても特にその法勲は偉大なものとして伝えられている。
加藤清正が豊臣秀吉の命を受けて、肥後隈本(熊本)から呼子(唐津市)の名護屋城に馳せ参じるコースを地理上で点検してみた。熊本を出発してまず有明海沿いに出る。大川市か城島(現久留米市)あたりで筑後川を渡り佐賀平野を川上峡へ。そのあとは古湯温泉から山道の杉山地区を通って浜玉−唐津にいたると考えるのが自然である。その意味では、宝塔山の「書きかけのお題目」と清正の因果は、極く当たり前の設定であった。
冒頭の写真の巨岩とお題目を目の当たりにしたとき、胸が高鳴るのを覚えた。それほどまでに、岩肌と文字の迫力が心に迫ったのである。日蓮宗など、特定の宗教には興味を示さない筆者も、歴史的に残る自然石と文字には感動を覚えずにはいられなかったのだ。しかも「書きかけ」とくれば、その謎に挑みたくもなる。写真は、川上峡
いかに戦国武将とはいえ、加藤清正が他国を土足で踏みにじったことは、秀吉とともに、やっぱり日本史の汚点といえよう。佐賀平野に生息するカササギを「カチガラス」と呼ばせて、加藤清正が朝鮮から持ち帰ったものだとか、朝鮮で虎退治をしたとか子供のころによく聞かされた“清正英雄”話が、今も記憶に新しい。
歴史をどう評価するか、どのように次代に引き継いでいくか。韓国や北朝鮮との関係がギクシャクしている今だからこそ、勇気を持って立ち向かわなければならない問題である。
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