伝説紀行  デンカ・アーヨーイ  筑前町(三輪町)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第231話 2005年10月30日版

2007.10.14
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

神無月の神隠し

久光のデンカアーヨーイ

朝倉郡三輪町
(現筑前町)


松峡八幡宮参道

 神さまが留守中の神無月(かんなづき=旧暦10月)に、村人が「堂こもり」をする。町の資料でそんな行事があることを知って、朝倉郡三輪町(現筑前町)栗田地区の松峡(まつお)八幡宮を訪れた。長い直線の参道を渉り終わったところの丘の上に本殿はあった。樹齢千年という楠の大木が、神社の由緒を何よりも証明してくれる。
 境内のあちこちを探したが、肝心の堂こもりを説明してくれるものがどうしても見当たらない。

神無月に子供が消える

 お話しを進めるにあたって、資料にある「むかし…」というだけでは面白くないので、時代を仮に江戸時代の初め頃に設定したい。
「母ちゃん、川向こうの吉松がきのうから家に帰っちこんげな」
「またね…、困ったもんじゃね」
 芳三の母ちゃんが困ったというわけは、この数年、神無月に入ると必ず子供がどこかに消えてしまうからである。
「大方、神さんが、出雲までの旅を賑やかにするために連れて行かしゃったつじゃろね」
と、母は冗談とも本気ともとれることを呟いた。

 毎年10月(陰暦)になると、松峡の八幡さまを初め、全国の八百万の神(やおよろずのかみ)がこぞって出雲大社に出かけられる。各地では、神さまが存在しなくなることから、10月の異称を「神無月」とつけられた。
 神さま方が集まっての会議は、実際には旧暦10月の11日から17日までの間にまず出雲大社で、次に佐太神社に移動して10月26日まで続くと言われる。そのため出雲大社と佐太神社ではその期間「神在祭(かみありまつり)」が行われるとか。

神さまが出雲から戻られて

 「次の神隠しは、もしかして…」と我が身を心配する子供たちが、神無月晦日(みそか=月末)晩、どやどやと松峡八幡の拝殿に押しかけてきた。その時大人たちは、母ちゃんが作ってくれたご馳走を摘みながら、ひと月ぶりに八幡さまが戻られるのを待っていた。
「神さまはいつ戻ると?」 ガキ大将の庄吉が村の顔役に訊いた。
「ただいま、無事ご帰還遊ばされた」
 顔役の一言で、大人たちは本殿に向かって座りなおした。
「お疲れ様でございました」、「今年の神さま方のお話し合いはいかがでございましたか?」なんて、神棚に向かってお神酒を注しながら話しかけている。でも、子供たちには神さまの姿など見えない。
「そんなら、俺たちにも神さんと話しばさせてくれ」
 子供たちは、さっさと拝殿の最前列に進んで、見えない八幡神さまに話しかけた。写真:全国から神さまが集まる出雲大社

よい神と悪い神

「友達がいなくなるとは困ります。神さまが出雲に出かけられるのに、なして子供連れでないといかんとですか? 大人ば連れて行ってもよかでっしょもん。そこんとこば、子供にもわかるごつ教えてください」
 怒ったように声を揃える子供たち。そこでうろたえるのは大人たちである。
「もうそんくらいでよかろうもん」と、無理やりお堂の外に連れ出そうとする。その時である。奥の朱色の扉が鈍い音を立てて半開きになり、中から厳かな神の声が…。
「子供たちよ、よっく聞け。我は人間社会を豊にするためにある八幡の神なるぞ。なんで大切な子供を隠したりなどしようぞ」写真:全国から集まった神さまの行列(出雲大社)
 確かに神さまの声が聞こえた。代表して庄吉が尋ねた。
「そんなら、村の吉松を連れ去ったのは誰なんです?」と。
「それは…、神にも良き神と悪しき神がおる。吉松を隠したるは、我が出雲に出かけての留守をいいことに、悪行を働くものの仕業なり」

浚われないようにデモ行進

 子供たちは一様に落胆して、その場に尻餅をついた。
「そんなに気を落とすことはない。よいか、来年からは、我の留守の間(神無月)、悪しき神に浚(さら)われないように寝ずの番をいたすのじゃ」
 そこで、神の声が途切れて、本殿の扉が閉められた。
「わかりました、神さま。来年の神無月からそげんします」
 子供たちは、閉められた扉の向こうの神さまに向かって深々と頭を下げた。その間、大人たちは何がなにやら皆目わからず、ただポカーンと口をあけたままだった。
 それからである。神無月が来ると、子供たちは身を清めて本殿前のお堂に籠もり、悪い神が近づかないよう見張るようになったのは。そして日が暮れて間もなく、500b先の谷頭川までデモ行進しながら、「デンカアーヨーイ(吉松よ、出ておいで)」と大声で叫んだ。
 子供たちの叫びは背後の目配山に木魂し、「デンカアーヨーイ」の声が返ってくる。だが、少し変だ。5人で呼べば6人、10人だったら11人の声が返ってくる。
「大方、あと一人分の声は吉松の声たい」とは、参加したみんなの意見。(完)

 松峡神社を訪ねたのは10月も半ばであった。稲刈りもすんで、大豆畑が黄色に染まる参道を静々と拝殿に進む。当然、神無月の堂こもりに興味を持ってのことだった。だが神社周辺に人影はない。
「八幡さんの秋の例祭はもうすみました。ですばってん、堂こもりのことは知りまっせん。すんませんな」と、畑仕事中のお年寄りが答えた。筑紫次郎が訪ねるあちこちで、伝統とか言い伝えとか、少しずつ消えていくのが寂しくて仕方がない。と申すこちらも、神無月が陰暦(旧暦)の10月であることをすっかり忘れて、ひと月早い新暦にやってきていたのだ。
 それにしても、松峡八幡宮は貫禄十分のお宮さんでありました。

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