伝説紀行 掛軸の幽霊  八女市


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第222話 2005年08月21日版
再編:2018.07.29
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

掛軸の中の幽霊

福岡県八女市

 八女市にある正福寺(しょうふくじ)の本堂には、お盆の間だけ幽霊の掛軸がかけられる。お盆と幽霊の因果に惹かれ、8月13日(05年)の午後にお邪魔した。
 掛軸の大きさは縦1bくらい。幽霊の目は俗界の人間を怨めしげに(にら)み、耳まで裂けた口は、今にも誰かに噛み付きそう。宙を泳ぐ人魂は、幽霊の顔を照らして更なる凄みを演出する。

墓から100年前のミイラが

 時は元禄元(1688)年というから、徳川の時代に入って90年たった頃である。長い梅雨の季節が過ぎて日増しに蒸し暑さが増す盆(旧暦)前であった。
 福島(現八女市)の正福寺では、本堂の大改修中。大工の弥一が仕事を終えて、縄のれんで一日を締めくくっている。
「あんたは本堂を修理している大工だね」


2005年8月12日 正福寺

 突然後から声をかけたのは、正福寺の庫裏に寝泊りしている坂田音五郎である。坂田は、久留米藩にスカウトされた絵師であった。「仕官の日まで、正福寺にお世話になっている」と聞かされた。
 居酒屋を出た弥一と坂田が、墓所を通って庫裏に向かった。そのとき、目の前をオレンジ色の火の玉がユラユラ揺れながら横切った。その後を、白い影のようなものが通り過ぎたような気がした。
「出た!」、そんなに度胸がすわっている方ではない弥一が、震え声を発してしゃがみこんだ。 隣を歩いている坂田はというと、平然と誰かに話しかけている。だが、弥一には、坂田の会話の相手が見えない。

幽霊と会話

「今晩の丑三つ刻(うしみつどき)(およそ今の午前2時〜2時半)に、もう一度私のところへおいでなさい」


墓場(イメージ)

 坂田は、再会の時刻を告げると、さっさと庫裏に消えていった。昼間、あんなに騒がしかった蝉の声が嘘のように静かな晩である。「ほーつ」、時折聞こえる(ふくろう)の鳴き声が、弥一の恐怖心をさらに掻き立てた。
「そろそろだな」、やおら立ち上がった坂田音五郎が、墓所に向いた障子を一度に開け広げた。月も天空に昇りきり、昼間のように明るく照らし出された墓所の一角から、再び火の玉が浮かび上がった。高まる緊張を抑えるのに必死の弥一のそばで、坂田が商売道具の墨と絵筆を取り出した。
「そなたの目は誰かを恨んでいるようにも見えるが・・・」
 坂田が、火の玉の後ろに控える白い影に話しかけた。

現世に身内がいなければ…

「ふむ、ふむ」、坂田は頷きながらも、なにやら画板上に描きだした。
「・・・この世を去ったのが50年前だとな。流行り病で死んでしもうたと。それで・・・」
 坂田音五郎は、白い影と会話を続ける間も手を休めずに、会話の相手を見つめながら写生を続けている。
「もう一つ訊いてもよいかな?・・・よいとな。うん、そなたは死んでなお未練がましくこの世に姿を見せるのは何故だ。それなりの理由(わけ)があろう。 ・・・ふむ、お盆にはあの世に行った人たちが、身内に会いに戻っていく。だが、昨年唯一残っていた身内を亡くしたそなたには、帰りたくても帰るところがないとな。生まれた場所や子供の頃に遊んだ山川を覗いてみたくてもそれもかなわず、と申すか。それで? ・・・我慢しているところに、埋められていた墓が墓所の移転で掘り起こされて・・・、とか?」
 墓の掘り起こしを請け負っている弥一といえば、体の震えが止まらなくなった。

絵を身代わりに

「来年からは盆が来ても、わざわざこんなに遠くまで来ずともよくなろう」
 坂田がゆっくり絵筆を置いたとき、目の前の火の玉は消え、白い影の気配も失せた。坂田の画板を覗き込んだ弥一が、仰天した。絵は、昨日墓を掘り起こしたとき見た、ミイラ化した死体だった。違うところといえば、遍路が着るような白の一重を纏っていることくらいか。
「坂田さま、あなたは姿も見ていないものをどうして描けるんです?」
「いや、私にはそこに立っていた幽霊がはっきり見えましたぞ。話すこともちゃんと聞こえた」
 坂田音五郎は、会話も写生もまったく不思議なことではないと言いたげであった。


幽霊の掛け軸がある本堂


「じゃあ、お聞きしますが。幽霊は、何を納得して姿を消したんです?」
「それはね、この絵・・・」
 坂田音五郎は、身内を持たない幽霊に、現世への未練を捨てるよう説得した。だが、なかなか聞き入れてくれない。そこで、幽霊の姿を本物そっくりに写生することで、身代わりをこの世に残すことを提案した。
「お盆の間、そなたを写した絵を寺の本堂に掲げてもらおう。さすれば、ご住職のありがたいお経をいただくこともできるし、大勢の方がそなたを供養してもくれる」と説いた。幽霊は、坂田の真剣な説得と、自分とそっくりな絵の見事さにほだされて納得したのだと言う。
 その後正福寺では、盆の期間中だけ坂田音五郎の「幽霊の絵」が掲げられるようになった。もちろん、それからは寺の周辺で人魂や幽霊を見ることもなくなったそうな。(完)

 広い本堂に上がると、ご本尊の脇に幽霊の絵は飾られていた。お盆と幽霊、どんな因果でこの期間に掲示されるのか。一説によれば、お盆には死んだ人の霊が身内を頼ってやってくる。だが中には、身内を持たない霊もいる。受け入れる身内が見当たらず、墓所を彷徨い、「恨めしや〜」と人前に出ることになる。
 このとき、幽霊の先導をするのが人魂
(火の玉とも)だ。そんなことから、盆には“火”が必需となる。迎え火、送り火、提灯、ロウソク、線香などなど、“火”のオンパレードとなる。
 僕の先祖にだけは、こちらの世においでなさっても不自由をかけないよう心がけたい。仏壇で平穏に3日間を過ごしていただくために、朝晩酒とご馳走だけは欠かさない。15日の夜には、遠方から帰ってくる子供や孫たちといっしょに、近くの川まで送っていく。「あっ、送り火を燃やすのを忘れた」と途中で叫ぶようでは、そのままずっと居付かれてしまうかもね。

読者からの便り

幽霊の元祖は? 

 さっきテレビを見ていたら、幽霊についてもっともらしい説が出ていました。
 幽霊に足がないのは、円山応挙(1733-95年)の著名な絵のイメージが一般化したものだそうです。その絵は妻を幽霊に見立てて描いたもの。本来は足があったが、お茶をこぼした際に下のほうが消えてしまったとか何とか。
 真偽のほどは知りません。
 怪談話の祖形は同じ時代の上田秋成(『雨月物語』など)がつくったことでもあり、社会が安定から不安へと向かう18世紀の日本で、現世を相対化する視点が形成されていたのかもしれません。
                                    
                  KTさん(東京在住)より

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