脊振の隠れキリシタン
【資料:キリシタン弾圧と島原の乱】
佐賀県東脊振村
小川内の「キリシタン遺跡」
屏風のように連なる背振山地。そこに降った雨は、尾根を分水嶺として、南は筑後川から有明海へ、北側は那珂川を経て博多湾へと流れ込む。山頂付近の那珂川が筑前(福岡県)と肥前(佐賀県)の県境になっていて、その西側が小川内地区(佐賀県東脊振村)で東側が東小河内地区(福岡県那珂川町)ということになる。
その小川内の杉木立の脇に、苔むした岩が大小無造作に積み重ねられていた。地元の物知り博士に尋ねると、「これはですよ、350年前に処刑されたキリシタンの追慕碑です」と答えてくれた。
行倒れの女
時は江戸幕府が成立して30年余りが経過した寛永15年の夏の頃。小川内村の清吉が、背振山中の霊仙寺近くで、中年の女がうずくまっているところに出くわした。写真:かつての小川内村落(今はダム建設で集落が消えている)
「もし、どうなさいました?」
体を揺すっても返事がない。額にはべっとり汗がにじんでいて胸の鼓動が伺える。まだ死んではいないようだ。涼しそうな草むらに寝かせ、腰に下げていた竹筒の水を口に含ませてやった。
「うーっ」、わずかに目を開けた女は、清吉の顔を見るなりまた目を閉じた。その時清吉の目に、女の胸元にきらりと光る十字架が見えた。
川辺の村に住みついた
それからひと月もたった頃、東小川内村の川岸に、見慣れぬ尼僧が住むようになった。東小河内村は、筑前国に属する五箇山村(現在は五ヶ山と書く)の枝村である(明治22年まで)。村人が身元を尋ねても、尼僧は「寂徳」と名乗るだけで多くを語ろうとしなかった。
尼僧は、山の中で行き倒れになっているところを清吉に助けられた女である。
「助けて〜」、子供の叫び声で清吉が外に出てみると、10歳ほどの男の子が増水した川に足をとられて流されるところだった。その時、庵から出てきた寂徳尼が襦袢1枚で激流の中に飛び込んだ。瞬時のうちに男の子を抱え込むと、川面に張り出した枝を伝って岸に這い上がった。
かつて東脊振にあった小学校(2005年)
「ありがとうございます、ありがとうございます」
かつての小川内集落(2005年4月撮影)
母親らしい女が、びっしょり濡れの尼僧に礼を言った。
それまで何かとギクシャクしていた新入りの寂徳尼と東小河内の住民とが、この事件をきっかけにして一挙に打ち解けた。女たちの悩み事を聞くのも彼女の大事な仕事になった。
そんなある日のこと、背振の山で修行中の僧が小川内村にやってきた。僧はそこで、「あの尼さんは、ひょっとして耶蘇(やそ)の信者じゃなかろうか」といった噂を耳にしてしまった。
突如キリシタン弾圧が
「そうでしたか・・・」
清吉から修行僧の話を聞いた寂徳尼は、深いため息をついた。
「お察しのとおり、私はキリシタンです。俗名を本村小夜と申しまして、島原藩の武士の娘でございます」
小夜と名乗った女は、生い立ちから清吉に助けられるまでを話した。
「物心ついたときには既に洗礼を受けていました。お城(原城)のお殿さま(有馬義直)もご家来衆も、皆さんがキリシタンでした。もちろん、父も母も入信していたのです。
関ヶ原の戦いからしばらくたって、徳川幕府はキリスト教を全面的に禁止しました。大名はおろか、百姓衆にいたるまで徹底的に改宗を迫られ、従わない者は処刑されました。我がお殿さまもご家来衆も、皆さまキリスト教を捨てられました。ですが、私は密かにイエスキリストさまの教えを信じ続けたのです。
55名もの宣教師や信徒が長崎で処刑されたのはこの頃です(元和大殉教)。幕府や諸大名は『踏み絵』でもってキリシタンをあぶり出し、踏み絵を拒否した者を捕まえては火あぶりの刑にしました。
悪いことは重なるもので、寛永10(1630)年になりますと、凶作が諸国のお百姓方に襲いかかりました。そんな折でも我が藩のお殿さまは、信徒の処刑、教会の破壊、宣教師の追放に明け暮れておられたのです。
有馬さまから藩主の座を受け継いだ松倉重昌さまは、幕府の『一国一城令』に便乗して、島原に石高以上の大きなお城をお築きになられたのです。そうでなくても参勤交代や公儀普請役など藩の財政が厳しい折です。松倉さまは、積もり積もった藩の財政難を、年貢のかさ上げで繕おうとなさったのでございます。年貢を納められなくなったお百姓には、体に蓑を巻きつけて木に吊るし、その蓑に火をつけて焼き殺しました。皆さんは、これを「ミノ(蓑虫)踊りの刑」と呼んでいました。
天草四郎と島原の乱
圧政に耐えられなくなった百姓衆は、藩に恨みを持つ浪人衆とともに立ち上がりました。ご一揆(ごいっき)の首領は、御年齢(おんとし)わずか16歳の益田時貞さま(1621〜38)でございます。時貞さまのお父上は有馬家の家臣です。また、世に言われる『天草四郎時貞』さまとは、この益田時貞さまのことでございます。
幕府は一揆を押さえ込むために、幕府の老中であった松平信綱さまを現地に遣わされました。松平さまは、九州中の大名に命じて島原に兵を集められました。その数十数万人ともいわれます。対する一揆衆の数は、僅かに3万8000人でした。益田時貞さまほか一揆衆は、かつて有馬さまの居城であった原城跡に立て籠もり徹底抗戦のかまえでした。写真:原城に立つ天草四郎像
正月を挟んで3ヶ月にも及ぶ攻防は、幕府方に1万人もの戦死者を出す損害を与えるほどの壮絶な戦いとなりました。ですが、一揆衆は兵糧も尽きて、一人残らず殺されておしまいになったのでございます。寛永15(1638)年の2月28日お昼過ぎのことでございました。
天草(益田)四郎時貞さまと一揆衆の硬い絆は、言うまでもなくイエスキリストの教えに導かれてのものです。私は原城の外にいて、密かに一揆衆との連絡役を務めておりました。
島原の乱後も、キリシタン弾圧の手が緩められることはありませんでした。領民すべてに、「宗旨人別帳」なるもので、しらみつぶしにキリシタンを洗い出していったのでございます。
危険を感じた私は、密かに島原を脱出して背振の山を越え、博多の港に出ようと考えました。でも、体力も資金もない旅ではそれも無茶なことで、栄養失調で倒れたところをあなたさまに助けられたというわけでございます」
石積みの墓標
長い経過を一気に話し終わった本村小夜は、「気心知れた貴方さまにお話できたことで、思い残すことはございません」と、安堵の表情を浮かべて微笑んだ。
「貴女は生き延びるべきです」と、清吉が逃亡を勧めた。すると小夜は、「もういいのです。間もなく佐賀藩の役人がここに参ることでしょう。その時はお世話になった村の皆さまにご迷惑がかからないようにいたしますゆえ・・・」と言い残して、庵を出ていった。
昨日の修行僧が訴えでたのだろう、翌日早く、山役人が小川内村にやってきた。村の入り口に土下座して待っていた小夜は、「私はキリシタンでございます」と名乗った。
荒縄で縛られて連行される小夜の後を、小川内の村人がついていった。足取りは重く誰一人言葉を発するものはなかった。村はずれの嶽(竹)屋敷まで来て、役人は小夜の体を蓑で巻きつけ、大きな椎の木に逆さ吊りにした。写真:嶽屋敷
「あれが、ミノ踊りの刑か」と、村人がざわめきだしたそのとき、小夜の口から真っ赤な血が滴り落ちた。彼女は自ら舌を噛み切って果てたのである。村人たちは、山役人たちが帰った後、思い切り泣いた。小夜の遺体を椎の木の下に埋葬し、近くにあった大きな石を墓標にした。それが今日「キリシタン遺跡」として伝えられる石積みだとのこと。(完)
東脊振村の小川内に赴き、「キリシタン遺跡」を探したがなかなか見つからない。一軒家食堂の女将さんが村の物知り博士に電話をしてくれて、やっと杉林の中の石積みを見つけることができた。
背振山地といえば、明治維新後に廃寺になった霊仙寺に代表される仏教の山としてしか頭になかった。九州全域を巻き込んだ内戦だったのだから、お隣の肥前の山中にこのような隠れキリシタンの伝説があっても不思議ではない。小夜の時代から350年、歳月は嫌な出来事をも次々に彼方に追いやっていくようだ。
かつての小河内渓谷
写真:いまでは民家や人は見当たらず、ダム工事のダンプだけ
「10年後には、このあたりもダムの底に沈むんですよ。なんでも、花畑(はなはた)ダムの7倍か8倍も大きなものらしか。ほら、あん高い所に道が見えるでしょう。あそこまで水に浸かるとです」と、食堂の女将さんが見上げて指をさした。
なるほど、山頂付近の周囲の杉林を伐採して山を裸にし、工事の準備が着々と進んでいる。ダムができてしまえば、小川内村と東小河内村が営々と築いてきた、ささやかな歴史をも水の中に沈められてしまう。
キリシタン(吉利支丹 切支丹):初め「吉利支丹」と書いていたが、禁教後は「鬼理死丹」などと書くようになった。また将軍綱吉以後は「吉」を避けて「切支丹」とも記した。
隠れキリシタン(隠切支丹):江戸幕府のキリシタン禁制後、密かに信仰を持続した信者のこと。
島原の乱:天草と島原で起こった百姓一揆。キリシタン教徒が多く、益田(天草)四郎時貞を首領とし、その後3万7000人が原城址に籠もる。幕府板倉重昌はこれを攻めたが戦死。次いで松平信綱が九州諸大名を指揮して城を落とした。
霊仙寺:709(和銅2)年、元明天皇の勅願によって創建された寺で、その後、九州屈指の山岳仏教の霊場として大いに栄えた。中世には重なる兵火で荒廃したものの、佐賀藩主が再興。明治維新後に廃寺となり現在に至っている。この霊仙寺が有名なのは、鎌倉時代に宋から茶種を持ち帰った栄西が、この霊仙寺の僧坊のひとつ石上坊の前園で初めて茶栽培行なったとされているため(日本茶樹栽培発祥の地)。
本稿をまとめて既に13年が経過している。このほど、久しぶりに肥前と肥後に跨る旧五ヶ山を訪ねた。あのときから、周囲の景色は一変していた。工事用の道路を大型トラックが行きかっている。ダムは完成したというが、あまりに器が大きすぎて、未だに貯水が満杯とはいかないらしい。ダムの展望台から水面を見下ろしながら、かつての集落や鎮守の神さま、道を尋ねた食堂などを捜すが、まったく見分けがつかない。皆さん、どこに行ってしまったのだろう。
小夜さんを偲ぶ石積みだけが、辛うじて水没から逃れていたのが救いだった。
完成した五ヶ山ダム
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