五馬の大蛇
ほら吹き利蔵さん
大分県天瀬町
五馬高原(天瀬町)
天ヶ瀬温泉あたりでご老人に声をかけたら、「むかしの話ば聞きたけりゃ、ちょっとばかり家に寄らんね。お茶くれえ出すけん」と誘ってくれた。生来「遠慮」という作法を心得ない我輩は、縁側でおいしい緑茶をご馳走になりながら、お年寄りの体験話を聞くことになった。
表札に掲げられた「安太郎」という名の老人は、わざとらしく目を瞑って、90年も前のことを思い出す仕種に余念がなかった。
五馬の山で陽が落ちて
安太郎爺さんは、子供の頃山ノ釣(やまのつり)というところに住んでいたと言う。野山を歩くのが大好きで、近所に住む猟が趣味の利蔵おっちゃんの後ろについてまわっていた。このおっちゃんときたら、近所でも「ほら吹き利蔵」で通っている。でも、安太郎少年はそんなことなどちっとも気にしていなかった。
今日も今日とて、鉄砲担いだおっちゃんの後ろをチョコチョコついて五馬の高原へ。獲物を追って山の中を走り回っているうちに、いつの間にか日が暮れた。
「しようがなかね。今晩はこの辺で寝るとするか」
利蔵おっちゃん、得体の知れない怪物が大きな口をあけたような洞穴の前に枯れ草を敷いて、どっかと座り込んだ。
「この前、おっちゃんが鴨撃ちに行った時の話ばしちゃるけん、よく聞け」
おっちゃんは、鉄砲を洞穴の入り口に立てかけて、改まった口調でいつもの自慢話を始めた。少年は「またか…」なんて素振りを決して見せない。そんなことをしたら、次から猟に連れて行ってもらえなくなるからだ。
「ありゃあ、まだ寒か1月の終わり頃じゃった。和田の淵までやってきた時のこつたい」
見渡したところ淵には1羽の鴨も浮かんでいなかった。そこで利蔵おっちゃんは空に向かって口を尖らせ「ホーイ、ホイ」と奇声を発した。すると不思議なことに、無数の鴨が何処からともなく寄ってきた。たちまち水面が見えないほどにひしめき合った。
利蔵おっちゃんのホラ
そこで利蔵おじさん、一度に10羽の鴨を仕留める方法を考えた。そこいらに落ちている大きな石で叩いて、銃の筒をSの字に曲げた。曲げ終わるとやおら火縄銃に火をつけて、鴨の群れに向けて「ズドーン」。彼方では、鴨が何羽も首を水中に突っ込んだ。
仕留めた獲物に近づくと、そこには計算どおりに10羽の鴨が死んでいた。と思って手づかみにしようとしたら、みんな飛び立ってしまった。
「弾は命中せんじゃったと?残念やったね」
安太郎は、心から同情している振りをした。
「生き物ばやたらと殺しちゃいかんちゅう、死んだ父ちゃんの教えば守っただけたい。筒がSの字に曲った先から飛び出した弾じゃけん、グニャグニャSの字型にカーブを描きながら鴨と鴨の間ばすり抜けていったつたい。弾が鴨ん耳元ば唸っていくもんじゃけん、鴨もびっくりこいて、みーんな気絶してしもうたと」だって。
「そんじゃあ、猟にならんね?」、安太郎も利蔵の話の先をもっと聞きたいと、わざとらしく袖を引っ張ってせがんだ。写真:五馬高原の案山子大会(2012年10月15日)
「そんなら続きば聞かしゅうたい」、とご機嫌の利蔵おっちゃん。
びしょ濡れで岸に上ったおっちゃんの足元で、ゴソゴソ動くものがいる。「ありゃ、1羽だけ死に損のうたばいね」、利蔵おっちゃん、先ほどまでの「仏心」を投げ捨てて、逃げそこないの鴨の尻尾を掴んだ。と、思いきや、それは野ウサギの後足だった。ウサギは捕まってたまるかと前足で必死に大地を引っかいた。すると、ウサギが掘った地面から1メートルもある山芋がポロリとぬけた。
「よっしゃ、これで晩飯のおかずがでけた」と喜んだ途端、野ウサギは利蔵おっちゃんに「あかんべえ」をして、草むらの中に消えてしまった。
「どうだ、おっちゃんの話は面白かったろう?」と念を押されても「面白うなかった」とは言えず、安太郎はしぶしぶ頷いた。
洞穴と思いきや
「それからたい、…」、まだまだ続きがありそうなので、安太郎は嘘の寝息をたてることにした。すっかり闇に包まれた五馬高原の空は、満天に星がキラキラと輝いているばかりだった。
「ありゃ、おっちゃん!」、仰向けになって空を眺めていた安太郎が1オクターブ高い声を発した。
「どうした?」、促されて利蔵おっちゃんも仰向けになると、「ありゃ、ありゃ、なんと…」、天空にお月さんが双つ並んで浮かんでいる。そんな馬鹿な、今夜は闇夜のはずなのに。しかも双つも…。手の甲で目をこすったが、やっぱりお月さまは双つ仲良く輝いている。
「もともと五馬にゃお月さんは双つあるとたい」、なんて知ったかぶりを言いながら立ち上がった利蔵おっちゃん。「なんじゃこりゃ?」、おっちゃんの心臓が怪しい音を立て、腰も萎えた。写真は、五馬高原三反田地区の民家
洞穴と思った丸い空間は、実はとてつもなく大きな大蛇の口だった。洞穴に立てかけたはずの火縄銃はというと、大蛇の口に差し込んだものだった。
「ウム、ウム・・・」、口の自由を奪われた大蛇は、双つの目から涙を噴出してもがいている。そう、双つ並んだお月さまとは、大蛇の大きな目だったのだ。キラキラ輝いて見えたのは、自由を奪われた大蛇の苦しみの涙だった。
鴨と大蛇話は爺さんの得意
「おっちゃん、どげんすんね?」と安太郎に訊かれても利蔵おっちゃん、今鉄砲をはずしたら、大蛇は2人を食べてしまうだろう。どうすりゃいいのさ、俺たちは…。
「おっちゃん、よかこつば教えるたい」
安太郎は、おっちゃんの6尺兵児(へこ=ふんどしのこと)をはずさせた。「太かろが、儂のは」なんていつもの冗談も出ない利蔵おっちゃんであった。安太郎は、兵児の先を銃に結びつけ、6尺向こうの夜陰に隠れて、思い切り引っ張った。火縄銃は無事利蔵おっちゃんの手に戻った。「さあ、逃げるばい!」2人は、暗闇の中を駆けた、駆けた。
「そんなことがあったんですか」、信じられないという気持ちで、僕は話し終わった安太郎爺さんのもとを去ろうとした。
「待ってください」、奥から息子のお嫁さんが出てきた。
「すみませんね、お義父さんのほら吹きにつき合わせてしまって」
お茶のお代わりを持って出てきたお嫁さん、うんざり顔で爺さんを睨みつけた。あれ、ほら吹きは利蔵おっちゃんじゃなくて、目の前の安太郎爺さんだったのか。
「お義父さんな、むかし夢を見たことば忘れられんらしかですよ。それに年寄り特有の病気も出掛かっとりますけん」だと。
「どうして、そんな途方もない夢をみたんですかね、お義父さんさんは?」と尋ねると。「若い頃馬車を弾いて五馬の高原ば行ったり来たりしとったです。道に迷うたり馬が言うこと聞かんかったりで、山ン中で野宿して怖かったことが頭から離れんとです」(完)
「ああ、世に言うトラウマちゅうやつですか」と言いかけて、慌てて口をつぐんだ。
安太郎爺さんと利蔵おっちゃんのご両人。真のほら吹きはいったいどちらなのか。そんなことを考えながら天ヶ瀬温泉から松原ダムへ、五馬高原を抜けていくコースを走った。
爺さんが馬車を引いて行き来した高原は、今でこそ立派な道路ができて拓けているが、明治期は狸や狐の天国だったのだろう。それに、鴨と野ウサギと大蛇の存在も忘れてはならない。澄んだ空気と山並みの景色の良さは、まるで名画の世界に紛れ込んだようだ。
「よっ、そこを行くのは筑紫の次郎どんでは?」と利蔵おっちゃんらしい男の声で呼び止められた。慌てて振り向いたが人影はない。「ひょっとして、道に迷ったのでは…」と不安が頭をもたげたその瞬間、尻尾の毛がふさふさの四つ足が目の前を走り抜けた。
トラウマ:[trauma]心的外傷。過去に体験した心理的な傷
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