伝説紀行 宵の川渡り  基山町


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第204話 2005年04月17日版

09.01.01
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

宵の川渡り
【カワタリ】

佐賀県基山町


小松地区を流れる秋光川

 小松の里(佐賀県基山町大字小松)には、「カワタリ」と呼ばれる正月前の餅搗きの風習があった。カタワリは、何故か日が暮れないと始まらない。しかも餅を搗く日は丑の日と相場が決まっていた。宵闇が迫ると、村中の者が一堂に集まって、小さな声で調子をとりながら餅を搗く。
「カワタリ」とは、「川渡り」が訛った方言だそうな。これには諸説あるようだが、小松地区のそれは、旧年から新年に向かって川で禊(みそぎ)をして旧年の埃を払い、新しい年を迎えようとの慣わしのようだ。特に「丑の日」を選ぶのは、年を越す重さを表現したものかもしれない。

カワタリの最中につわものどもが

 時は天正14(1586)年というから、天下分け目の関が原合戦から遡ること14年前の戦国時代、師走の丑の日。この頃小松村では、夜明けと同時に正月にむけた餅つきが始まった。餅をつく気持ちには、1年間の無事に感謝し、来年もまた明るくよい年であるようにとの願いが込められている。
「そーれ」の声に合わせて若衆が勢いよく杵を持ち上げる。どっこいしょと振り下ろす間に、姉さん冠りの母ちゃんが臼の中をかき回した。夜明けから威勢のよいこと。
 その時、秋光川の対岸の葦がざわざわと揺れて、十数人の髭面の男が姿を現した。皆んな鎧を着ていて、手には槍や刀を持っている。村の衆が瞬く間もなかった。兵(つわもの)どもは、我れ先にと川を渡ってきて、搗きあがったばかりの餅に食らいついた。それでも足りなくて、臼の中の搗きかけのものや、炊きかけの餅米まで平らげてしまった。満腹になると彼らは、死んだように、だらしなく臍を天井に向けて眠り込んでしまった。
「困ったもんだ、これじゃ小松に正月がこねえ」
 嘆くことしきりの里人たち。

小松の餅を食うてしもた

 お天道さまが真上に差し掛かる頃、中でも着ている甲冑が重そうな武将風の男が目を覚ました。
「生きている、儂らは生きている」
 突然大声で叫んだものだから、他の連中もいっせいに体を起こした。
「まだまだ、閻魔(えんま)さんが来ちゃいかんち言よらすとばいね」
「これでまた、かかあとナニができゅる」
 兵どもが手を取り合って喜んでいる。そこに庄屋の鳥八と村の衆が恐る恐る近づいた。
「ちとものを尋ねるが、ここは何処じゃ?」
 武将風の男が鳥八に訊いた。
「ここは小松村ですが…、それよりお侍さまがたは、どういうわけでこちらへ?」
 武将風の男にもやっと理由がわかってきたらしい。
「あいすまぬ。昨夜から何も食っておらなかったゆえ、そなたらが搗いた餅をみな食うてしもうた」
 威左衛門と名乗った武将が素直に頭を下げた。正月用の餅を食べられてしまった村の衆も、謝られては文句の言いようがなかった。

勝尾城を島津軍が・・・

 庄屋の鳥八が訊くのに、威左衛門が答えた。
「殿をはじめ皆んなはお城に籠もっておられる。我らは、殿の言いつけで昨夜城を抜け出した。その時50人いた家来も今ではここにいる13人だけだ」
「残りの方はどうなさいましたので?」
「城を出てすぐ敵勢に見つかり、討ち死にだ。それがしは、殿の命を受けて太宰府の岩屋城に行く途中であったが、その後のことはよく覚えておらぬ」
 話しているうちも、威左衛門の口元が悔しさで震えている。威左衛門らが去って、小松の里がまた静けさを取り戻した。
「これからあの侍さんたちはどうなるのかね?」
「さあな、そりより餅つきどうしたらよかもんか?」写真:基山町の大興禅寺から望む郷
「もう、餅米も残っちゃいないし…」
 里人にとって、お城の殿さまや戦の行方より、新年を迎えて神さまに供える鏡餅がつくれないことのほうが心配のようだ。

大友・龍造寺・島津の三つ巴

 さて、威左衛門が言う勝尾城のことだが・・・。
 勝尾城とは、小松村から西へ直線距離で約4キロ地点の山頂(標高500b)に建つ城である。城主の筑紫広門は、祖父満門、父惟門の跡を継いで、ここ基養父(きやぶ)を中心に君臨する地方大名であった。
 天正5(1577)年、豊後の大友宗麟は日向の伊東義祐の依頼を受けて出陣し、薩摩の島津と戦った。だが、耳川の合戦で大敗北を喫してしまった。勢いに乗る島津は、全九州覇権の野望に燃えて北上してきた。
 当時大友の輩下にあった筑紫広門は、向ってくる島津を迎えうつことになった。裏をかいたつもりがそのまた裏をかかれて、城を取り囲まれた広門は、篭城の末に降伏を申し入れた。囚われの身になった広門は、大友が豊臣秀吉に援軍要請をしたことを聞くや、幽閉先を抜け出して再び兵を組織し、島津攻めに加わった。
 威左衛門らが小松村に逃げ込んで正月用の餅を平らげたのは、広門が勝尾城で篭城しているときのことであった。

来年こそは神さまに餅を

 戦のあおりを食って、小松の里はカワタリのない寂しい年末年始を過ごすことになった。
「この世の中、人間がおるかぎり戦が耐えることはなか。腹をすかした兵は、またもや暗闇時に現われて、餅ば皆んな食うてしまうに違いなか」
 庄屋の鳥八が憂鬱そうに呟いた。
「そんなら、どげんしたらよかですか?」
 里人は、お世話になっている神さまに、来年こそは何としても鏡餅を供えたいと真剣に考えている。
「じゃけん、これからのは、朝じゃのうて夜にやろうばい」
 一同、力なく頷いた。
「そげんしょげんでよかたい。朝の来ん夜はなかけんね。来年は盛大に、しかもお静かに、カワタリばやるけんね」
 鳥八のおどけた調子に、今度は男も女も大笑い。それからである。小松村の師走の餅搗きが、朝から夜に変わったのは。そこで小松の餅搗きを「宵のカワタリ」と言うようになった。

 福岡から久留米方面に向かう鳥栖・筑紫野道路(通称5号線)の料金所を過ぎたあたり。右手に、山々がふもとの里を抱きかかえるようにして居座っている。里中に一歩足を踏み入れると、何キロ先の水音までも聞こえそうな静寂が我が身を包み込んだ。
 見上げる基山(404b)の頂上には、奈良時代に築かれた基肄城の跡がある。中腹には、瀧光徳寺などいくつもの寺が望めて、里人はまるで仏に護られているようだ。里にはつつじで有名な大興善寺も建っている。寺の裏手に回ったら、写真の大桜を見つけた。花は森に隠れるようにして畑の中で精一杯アピールしていた。でも、お花見客は僕一人だけ。「大丈夫だよ、キミの美しさは筑紫次郎がインターネットで全世界に発信してあげるから」と約束してその場を離れた。
 川底が透けて見える秋光川の岸辺に立つと、500年前の戦国時代に、カワタリで汗を流した里人の声が聞こえてきそうだ。カタワリが朝の行事から「宵」に変わったのは、「戦争は嫌だ、平和がいい」と訴える里人の悲痛な願いがこめられたものだったのだ。でも、宵になって餅を搗く、そんな素朴な風習も現代では通用しなくなった。

岩屋城址:太宰府市から四王子山に登る途中にある(写真)。

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