左:後鳥羽神社 右:大畑の地蔵さん
後鳥羽上皇縁の地?
博多湾から南方を望むと、標高1000bの山が、まるで屏風のように横一列に連なって見える。筑前と肥前を分ける背振山脈だ。
県境の三瀬峠を越え、しばらくはなだらかな高原が続く。高原の一角の脊振村(現神埼市)で「鳥羽院なる地名を見つけた。筑後川に流れ込む城原川の源流地帯である。
変った地名だと思って調べていくと、歴史に名を刻した後鳥羽上皇縁の名前や場所がたくさんでてきた。写真の後鳥羽神社をはじめ、上皇を葬ったと伝えられる塚までさまざまだ。
そんなはずはない。後鳥羽上皇は配流先の隠岐島を一歩も出ることなく、和歌を詠んで侘しさを紛らわしながら、60歳で生涯を終えたと歴史書には書いてある。でも、何だか曰くありげで楽しそう。
孟宗竹が繁る大畑という地区で足を止めた。稗粥地蔵堂(ひえかゆじぞうどう)と書かれたお堂が目にとまったからだ。閉まっている観音扉を開けさせてもらうと、高さ30aほどのお地蔵さんが錫杖を持って立っておられた。
主従6人が背振の山中を
時は鎌倉時代。三瀬高原には未だ人の住家はまばらで、旅人が通う道も、すれ違えば肩が触れ合うほどに狭かった。原始林を潜り抜けるとすぐに湿地帯で、その向こうは獣も嫌がりそうな激しい傾斜が待っている。
そんな山道を、6人の男が北から南へと歩を進めていた。皆んな疲労困憊の様子で、着ている衣も砂埃で白く汚れ、裾は簾のようで原形をとどめていない。どこか公家の雰囲気を醸す一行であった。
「四方安、お上がお疲れじゃによって、どこか休息場所など探してまいれ」
二番手を歩いている男が、道案内をする小柄の男に声をかけた。お上とは、一行に守られるようにして列の中ほどを歩く小太りの初老爺のことらしい。
「それは気がつきませぬことで・・・。そこな切り株にお腰をおかけ遊ばして、しばしお待ちくださりませ。すぐに食事と休息場所を貰ってまいりますほどに」
四方安と呼ばれた小男が、近くの農家の庇を潜った。
親切な老婆に助けられ
薄暗い土間の隅で、総白髪の老女が竈に薪を放り込んでいる。グツグツ滾る鍋の中では、ぜんまいや蕗など幾種類もの野草が煮えたぎっていた。突っ立っている四方安に気がついて老婆が振り向いた。腰は90度に曲がったままである。
「どなたさまで?」
「はい、私どもは肥後まで参る旅のものでございます」
「それはそれは、このような山道を難儀でありますな。汚いところだが、ひと休みなさいませ。どうぞ、どうぞ」
誘われて四方安は外で待っている主人と4人の従者を呼びこんだ。
「都のお方と聞けば、山の中の稗粥なぞ口には合いますまい。でも、お見受けしたところ空腹のご様子なれば、わずかなりともお腹の足しにはなりましょうほどに」
老婆は、木をくり抜いただけの6個のお椀に、鍋の中の粥をついで差し出した。
都人でも粥の味は格別
「何よりの馳走でありますなあ。お上もあのようにお喜びであらしゃいます」
「こんなもんでよかったら、家の周りでいくらでも採れますけん、たんと食べてくだされ」
「都では田舎料理を食することはめったにありませなんだが、実に美味でおじゃりますな」
従者の中でも位の高そうな男が、世辞を並べた上で遠慮深そうにお代わりを求めた。すると、お上と崇められる初老爺も、赤ら顔をさらに赤らめて空になった椀を差し出した。
写真は、後鳥羽院の集落
食べ終わって、人心地ついたところで、男が老婆に主を紹介した。
「ここにおわすは、さる高貴なお方でおじゃる。この度は、大そうなる馳走になり、いたく感激されてこのような歌を詠まれた」と言い、今作られたばかりの歌を読みあげた。
「かくばかり身の温まる草の名を いかでか人は稗というらむ」
旅の一行6人は、親切な老婆の勧めでひと晩が二晩と寝泊りするうちに、いつしか季節は春から夏へと移っていた。四方安は近所の者に教えられて、一行が食べる食材や薪を調達するようになった。たまには猟師の見よう見まねで仕掛けをして、猪を仕留めたりもする。そんな時は、村中のものが集まってきて、肉を焼いたり煮たりして舌鼓を打った。
お礼に刻んだ地蔵菩薩
「お上」と称する初老爺はいつも無口で、奥まった場所で何やら木を彫っている。
「お見事でおじゃりますな、お上」
男が大袈裟に初老爺を称えた。削っていたものの出来栄えに感嘆しているのである。出来上がったものとは、背丈が1尺ばかりの地蔵菩薩像であった。親切な老婆への返礼として置いていくつもりのようだ。
「長居もこのへんで・・・」と、一行が旅立とうとする前の晩、初老爺が急な腹痛に襲われて動けなくなった。従者たちは、寝ずで主の容態を気遣った。
「都であれば、一流の薬師もおろうものを」と、男たちはただオロオロするばかり。家主の老婆も、責任を感じてか、客が彫り上げたばかりの地蔵菩薩に向かって拝み続けた。
看病の甲斐もなく、初老爺は間もなくあちらの世界に逝ってしまった。
「おかわいそうに…」
一行は7日間、主の遺体の側から離れなかった。
タイムスリップしたような・・・
旅の途中で主を亡くした一行が、その後どうしたかはっきりしない。向かっていた肥後国に行ったのか、そのまま背振の山中で生涯を終えたのか、諸説あってすべて謎の中。
後の世になって、承久の乱(じょうきゅうのらん)のことがこの山の中まで伝わると、「後鳥羽上皇さまは、実は密かに隠岐島を脱出されて九州に上陸された」との噂が、上皇の背振御臨幸説をつくりあげてしまった。「上皇がお彫りになられた地蔵菩薩なれば・・・」と、村ではお堂を建ててお祭りすることにもなった。
時代は移り変わって今日でも、ここ脊振村には鎌倉時代が生きている。まず地名の鳥羽院と鎮守の後鳥羽神社は、ずばり後鳥羽伝説そのものである。上皇一行が初めてこの地に足を踏み入れて、親切な老婆に稗粥をご馳走になった場所、つまり上皇が彫った稗粥地蔵を祀る集落を大畑という。これもむかしは王畑と書いていたそうな。
後鳥羽神社の西方手井田は帝田と記していた。鳥羽院内にある善心寺の東、手井田からの流れが澱んだところをみそぎという。上皇がこの地で禊をされたかららしい。(完)
来年3月には、この背振村の名前が神埼市に変わる。平成の大合併により、神埼町、千代田町と一緒になる。面積60キロuに620の世帯、2000人が住んでいる典型的な山村がである。
城原川に沿って延々と続く桜並木を上り詰めて、枝道を行く。杉や檜の大木が覆いかぶさるようなそんな山道であった。しばらく走ると、目指す鳥羽院の集落に着いた。
小径の先で見上げる丘が後鳥羽上皇の塚だと。坂道を下りていくと、子守唄を聞くような滝の音が聞こえてくる。水墨画を思わせる景色に見とれるその横が後鳥羽神社であった。しばし幻想の世界に浸っていて、今度は上皇縁の善心寺に赴いた。寺から眺める村落もまた、日本の原風景をとどめたもので嬉しかった。
畑仕事中の女性に話しかけた。「この地は都から上皇がおいでなさったところですね?」「はい、そう聞いています。もったいないような地名ですね」と応えてくれた。
「孟宗竹林がきれいですね。間もなく筍の季節ですが?」「はい、ここの筍はおいしいんですよ。でもね…」「駄目なんですか?」「そうじゃなかとですが、筍は竹林を手間暇かけて手入れして産みだすもんです。こんなに背丈が伸びてしまった孟宗竹からは、売り物になる筍は採れません。作業する若いもんがおらんのですよ」
寂しそうに語る女性の口元を見ていると、それまでタイムスリップで見ていた夢がいっぺんに覚めてしまった。ここでも「過疎」の現実を見せ付けられてしまった。