伝説紀行 娘落とし  うきは市(浮羽町)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第191話 2005年01月16日版
再編:2017.07.23 2019.03.10
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

娘落とし

福岡県うきは市(浮羽町)


深い谷に架かる橋

 浮羽町域の3分の2は深い山岳地帯にある。山に降った雨のほとんどは、斜面を北に向かって駆け下り、やがて筑後川に合流する。
 物語の新川(にいかわ)地区は、町の南方10`ほどの山の中。散在する集落に197世帯、800人が暮らしている。わずか2キロ足らずの間を、標高が300bから600bの傾斜で流れるさまは、まさしく音を立てて落ちる滝のよう。長年急流の激突を繰り返すうちに、川底はますます深くなり、今では上から覗き見しただけで足がすくんでしまうほど。
 そんな新川に、「娘落とし」と名づけられる谷があると聞いた。

渓谷で女の抵抗する声が

 時代が江戸から明治に変わった頃。新川村に住む田之助が、金ヶ淵そばを歩いていた。寒い冬が過ぎて3月、生暖かい東風と朧月夜にほろ酔いが重なって、田之助の足はのったりのったり。
「いやです、わたし、いや・・・」
 田之助の耳にかすれたような色っぽい女の声が届いた。こんな山の中の川縁に人間がいるわけがない。空耳だ、そうに違いないと自分に言い聞かせて田之助がまた歩き出すと、今度はもっとはっきり聞こえた。(写真は、川辺に祭られる石仏)


「私には・・・、・・・ですから嫌です」
 言葉の内容までははっきりしないが、明らかに女が男に逆らっている様である。
「わかった、もうおまんが好かんこつはせんけん・・・」
 今度は男の声が聞こえた。それも中年男のだみ声が。

又聞きの爺さんが謎を解く

 翌日、田之助は田籠の諏訪神社そばに住む芳蔵爺さんを訪ね、昨夜金ヶ淵で聞いた女と男の声のことを話した。
「ほかにも何人も聞いちょるけん、お前が聞いた女の声は間違いなか」
 爺さんは、えらくまじめに田之助からの怖い話を受け止めた。
「ほんなら、あの女と男の声は、いったい誰ですじゃろう?」
「祖父さんから聞いた話ばってん。聞いた祖父さんもまたその祖父さんから聞いたち言うとったばってん・・・」
 “また聞き”の“また聞き”もいいところだが、昨夜のことを“空耳”だとからかう村の奴らの鼻をあかすためにも、ここは爺さんの話をじっくり聞かなければなるまい。
 爺さんが、座りなおして話すには・・・

売られる娘が恋人を慕う

 ときは、江戸時代の前期。
「こんなに雨が降らなんじゃ、今年も米がとれんな」
 村人たちは、執拗な年貢の取立てと2年続きの飢饉でお手上げ状態だった。彼らは、金になるものなら何でも売り飛ばした。それがたとえ自分の娘でも。川そばに住むお里のところにも、明日人買いがやってくることになっている。お里には将来を契った恋人がいるというのに。
「いやだ、おらは甚作さんの嫁さんになるけん」
 泣き叫びながら外に出たお里の足は、甚作のいる本村に向いていた。夜も更けて、外は漆黒の闇に包まれている。
「おやおや、そこを行くのはお里ちゃんじゃなかね」
 呼び止められて振り返ると、甚作と同じ本村に住む山林地主の万四郎だった。
「何ごと? おらはちょっとばかり急いじょるとばってん」
 泣き顔を見られたくないこともあって、さっさと川に架かる土橋を渡ろうとした。
「知っちょるが、おまんが甚作のところに行きょるこつは。ばってん、あいつはきのう博多に奉公に出たけん、本村にはおりゃせんが」

人の恋路を邪魔する金持ち

 恋する男に会えないと聞いただけで、お里は全身の力が抜けてしまい、土橋の上に座り込んだ。
「話に聞けば、おまんは日田の女郎屋に売らるるちゅうじゃなかか。俺は前からおまんのごたる色白の別嬪(べっぴん)ば抱いてみたかったとたい。ほかの男に好きなようにされるくらいなら、俺の妾にならんか。不自由なこつはさせんけん」


田籠地区の古民家

 人の弱みに付け込んで、とんでもないことを言う中年もいたものだ。
「そげなわけにはいかんとです。おらには甚作さんしかおらんとじゃから」
 後から万四郎に抱きつかれたお里は、もがいた。
「いやです、いやです」
「私には・・・、・・・ですから嫌です」
 お里は、必死で男の手から逃れようとした。
「わかった、もうおまんが好かんこつはせんけん・・・。暗うて危ねえからよ、おまんの家まで送っていくが」

油断したら急流にまっ逆さま

 安心したのか、お里が裾の汚れを払って立ち上がった。そのとき後ろにいた万四郎が背中を押したものだからひとたまりもない。雨上がりで水嵩の増した新川にまっ逆さまに落ちていった。
 それからである。毎夜毎夜、娘の抵抗する「いやです、いやです」の声と、「甚作さ〜ん、たすけて〜」の悲鳴が金ヶ淵あたりで聞こえるようになったのは。
 時は移っても、女の抵抗とすすり泣きが聞こえたというわけ。
「幽霊ばい、きっと」
 村人たちは、恐れをなして金ヶ淵には近づかなくなった。そして、土橋のあるあたりを誰言うとなく「娘落とし」と呼ぶようになった。
 芳蔵爺さんは、話し終えてもまだ悪寒がおさまらない様子で唇が青い。
「どうしたんだい?爺さま」


水害前の浮羽の棚田

 田之助が異様なまでに興奮している芳蔵爺さまに訊いた。
「いやな、話の中に出てくるお里の恋人のこつじゃ。甚作といったが、その人こそ、わしの祖父さんが聞いた、そのまた祖父さん本人なんじゃよ。(完)

 隈上川を遡って行くと、そこでは日本の原風景に出会うことができる。それほどまでに自然が残されているというとだ。棚田や山小屋など造形物が、山や岩や渓流とほどよくマッチしているから、歩いているだけで楽しくなる。
 さて、お里さんの幽霊話だが・・・。周囲の状況から推測するに、深い谷を覆う樹木や竹薮にあたる風の音。それに流れ落ちる水の音が重なれば、寂しい人間には幽霊の叫びにも聞こえるのではあるまいか。だが、僕のそんな推理など、地元の方々は受け付けてくれそうにない。今度は意を決して夜中の新川を訪ねてみるか。

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