伝説紀行 首切り地蔵 久留米市(善導寺)
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僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。 |
戦国の首切り地蔵 福岡県久留米市(善導寺)
久留米市の東端、善導寺木塚地区に、その名も「首切り地蔵」と呼ぶ地蔵さんが立っておられる。善導寺界隈は、大むかしから草野一族が支配したところ。大伽藍である善導寺の起源も、草野氏の思い入れによるものだと伝えられている。その寺の周辺に立つ物騒な名の地蔵さんとは。 無情な強盗が皆殺し 名刹善導寺から1キロほど西に、茂平と名乗る百姓親子が住んでいた。江戸時代も中頃のことである。茂平の暮らしぶりはいたって質素で、田んぼもお金も、食っていくのに困らない程度ながらも不満顔は見せない。
「ご覧のとおり、家にはあなたに持っていってもらうような金もなければ物もありまっせん」
斬殺後には草木も生えぬ 主をなくした茂平の家は間もなく朽ち果て、周囲の桑畑も草茫々の状態になった。 祟りは200年前に遡る 「どなたとお話になっていたんです?」 秀吉への恨みが… 200年前といえば、豊臣秀吉が天下を掌握して間もない頃である。秀吉は、命に従わない薩摩の島津を討つために、西国の大名に25万人もの大軍を編成させた。天正14(1586)年のことである。恐れをなした島津が降伏して、ようやく戦国時代に終止符がうたれた。
勢いに乗る秀吉は、九州の国割(知行割)を断行した。そのとき、四国の伊予への移転を拒んだ豊前の宇都宮氏は、中津城に誘い出されて殺された。筑後では、国割りに反発した草野鎮永氏が、耳納山の中腹に築いていた発心城に立て籠もった。当時秀吉の手下にあった久留米の小早川秀包(ひでかね)は、発心城を攻めた。そして、山を下りて善導寺に逃げ込んだ鎮永を包囲した。 石の地蔵は何想う 「その場所が、草も生えぬ茂平の桑畑ですか?」
寺の大先輩との会話の内容を披瀝した善導寺の高僧は、再び桑畑に膝まづくと、地下にある死者に向かって供養の経を唱えた。 善導寺にあって筑後の民の暮らしぶりを見てきた地蔵さん、相変わらず人を殺めたり弱いものを虐める世の風潮をどう思われているのやら。 |