伝説紀行 茂左衛門塚  うきは市(浮羽町)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第186話 2004年11月28日版

2008.01.20
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

とんまな強盗
茂左衛門塚の由来

福岡県浮羽町


大生寺の仏殿

 浮羽町役場(現うきは市支所)から南に1キロほど南下した耳納山のふもとに、五葉山大生寺(ごようざんだいしょうじ)という古刹が建っている。番地は「浮羽町大字流川(ながれがわ)」である。筑後川に注ぐ巨瀬川に抱かれた閑静な山村だが、かつては国盗り戦争の舞台にもなった。
 その大生寺の近くの土盛りしたあたりで、毎晩のように硫黄を燃やしたような不気味な炎が揺らぎ、血の気を失った4体の人影が現われては消える様を、地元住民が見て(おのの)いた。
 そこでまたまた、村の物知り博士にご登場願って、謂れを訊くことに。

黄金の仏像を盗む

「それはっさい・・・、あの場所が『茂左衛門塚』ち言うて、大罪を犯した者の首を祭った墓じゃけん」、博士の話しかたはどこか講談調で、聞いているこちらの心臓も次第に波打っていく。
 おおよそ380年もむかし、徳川秀忠の時代。流川村の大生寺に安置される黄金造りの如来像が近郷近在の話題をさらっていた。仏さまのお顔を拝めばご利益間違いなしと、近くの衆や、生涯一度でいいからと遥か彼方から参拝にやってくる人などで、寺の周辺は引きもきらぬ賑わいようだったそうな。
「あの仏像は、売ればなんぼになるものやら?」
 山を下りた街の居酒屋で、髭面の男が独り言。すると、そばでチビチビやっていたギョロ目の男が擦り寄った。
「どう計算しても千両箱一つじゃすまねえと思うぜ」
 髭面のまわりには、いつの間にか3人の男が集まって、話はとんでもない方向に走り出した。

見つかって返り討ち

 抜き足差し足、手拭で顔を隠した4人の男が大生寺の庭内に忍び込んだ。2人に見張りをさせて髭面とギョロ目が本堂に入った。
「あった、これだ!」
 ギョロ目が手にした仏像は、紛れもなく黄金造りの如来さまだった。


流川

「気をつけろ」
 髭面が声をかけた瞬間、ギョロ目が敷居にけ躓いたものだからたまらない。「どすーん」と鈍い音がしてギョロ目が持っていた仏像を取り落とし、「ガチャーン」。
「バカ、アホ、間抜け!」
 つい髭面の声が大きくなった。
「誰じゃ、そこにおるのは?」
 燭台を手にした和尚が怒鳴った。
「顔を見られたんじゃ仕方がなか、やっちまえ」
 いつの間に現われたか、見張りをしていた2人の男が和尚に飛び掛った。
「がぉーっ」
 和尚が、変な声を発してその場に倒れた。

黄金どころか…

「逃げろ!」
「いくら割れても黄金は黄金ばい。仏さんば忘るるな!」
 4人は仏像を風呂敷に包んで、一目散に山を駆け下り、大川(筑後川)端までやってきた。丁度そのとき、東の空が明るくなった。
「京の都になどトンズラして、よかきもん(着物)ば着とれば、誰も俺たちのことを怪しんだりはせんたい」
「そうたい、そうたい。坊主はあの世に送りだしたこつじゃけん。俺たちの顔を見たもんはこの世に誰もおらんけんな」
「それより、早よう宝もんのお顔ば拝ませてもらいたか」
 威勢のいい男たちが、風呂敷包みを広げた途端、一様にのけぞった。
「何んじゃ、こりゃ?」
 黄金造りとは真反対の、質の悪い瓦を彫っただけの粗末な仏さまだった。
「やられた!あの坊主に」
 そうなのだ。寺では大事なご本尊を盗難から守るため、奥深くに安置して、形だけの金箔を塗ったレプリカ仏像を参拝者に拝ませていたのだった。

押し入った4人の素性とは・・・。
  
筑前国 志波村(現朝倉郡杷木町)の茂左衛門
  肥前国 基山村(現佐賀県基山町)の甚左衛門
  豊後国 日田郡の吉兵衛
  筑後国 竹野村(現浮羽郡吉井町)の新左衛門

罪を重ねながらの逃避行

 彼らは、筑後川を挟んで向こう側の、村の嫌われ者たちだった。4人にとって、「目撃者なき殺人」とたかを括っていたのが一生の不覚だった。実は、和尚を殺めるその瞬間を物陰から見ていたものが一人だけいたのだ。それは寺の小僧。小僧は駆けつけた役人にそのときの様子や、4人の人相などをこと細かく話した。
「そうか、・・・街に俺たちの似顔絵が出回っとるち言うとか」
 親分格の茂左衛門が腕組みしたまま唸った。
「こうなりゃ、遠くにずらかるしきゃねえぜ、兄貴」
 ギョロ目の甚左衛門が髭面の茂左衛門を促した。逃げるといっても先立つ路銀がない。
「1人殺すも、10人刺すも罪は同じたい」
 
押し込み強盗を重ねながらの4人の逃避行が始まった。犯行の都度、とんまな4人は何がしかの証拠を現場に残している。肥前長崎にたどり着いたとき、奉行所は4人の包囲網を完全に狭めていた。

首は筑後川のほとりに

 仏に仕えるものを殺めた重罪で、主犯格の茂左衛門は竹鋸引きの刑に、他の3人は火あぶりの刑に処せられた。奉行所は、刑場の露と化した4人の首を、犯行現場近くの大生寺近辺に埋めた。死後は生まれ故郷の筑後川を望む場所でとの、せめてもの奉行所のはからいだった。
「いかに大罪を犯した者でも、見送りの経もないんじゃ地獄にもたどりつけまい。そうじゃろう、だから4人の霊は処刑の後もこのあたりをウロウロしていたというわけたい」
 物知り博士は、大生寺周辺に燃え上がる亡霊と人魂の由来を以上のように語った。
「それで、彼らは無事あの世に行けたんですか?」 無駄を承知で質問してみた。


写真は、茂左衛門塚近くを流れる巨瀬川

「ああ、村のもんも、あんまり気味が悪いんで、4人の首を掘り起こして巨瀬川の清流で洗い、新しく墓を造って祭ったのじゃが・・・」
 人魂と亡霊はその後もさまよい続けた。そんな折、深夜になると必ず墓の前でお経を上げる僧が現われた。誰あろう、茂左衛門らが和尚を殺害した時、その様子を目撃していたあの時の小僧である。今や寺の住職に昇格した彼は、自分の証言が4人の処刑に繋がったと思い、せめて葬送の儀をと、お墓の前で経を上げていたのであった。しばらくすると、亡霊も人魂もすっかり見えなくなったんだと。(完)

 享保5(1720)年の大山汐(おおやましお=山崩れ)では、流川のところどころが崩れ落ちて、家々は押しつぶされ、畑は耕作不能に陥った。物語の大生寺も大被害を蒙ったと記録されている。「仏殿は山抜け大石洗い出し築き埋め、小僧1人死ぬ、仏具も洗い流し大破する」とある。大生寺は、そのときの天災まで賑わいだったのだろうか。
 本題の本尊薬師如来は、名僧行基の作とも言われる。また、殿内に安置されている頭尊者木像は、日本にある三体の一つともいわれている。当時九州各地より参詣者が多く、その多額のお賽銭をもって仏殿が建立されたと、町の歴史書には書かれている。そんなところから、本篇伝説が生まれたのかもしれない。
 その大生寺は、油絵の世界を彷彿させる巨瀬川源流の「調音の滝」のすぐ下流にあった。

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