伝説紀行 茂左衛門塚 うきは市(浮羽町)
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僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。 |
とんまな強盗 福岡県浮羽町
浮羽町役場(現うきは市支所)から南に1キロほど南下した耳納山のふもとに、五葉山大生寺(ごようざんだいしょうじ)という古刹が建っている。番地は「浮羽町大字 黄金の仏像を盗む 「それはっさい・・・、あの場所が『茂左衛門塚』ち言うて、大罪を犯した者の首を祭った墓じゃけん」、博士の話しかたはどこか講談調で、聞いているこちらの心臓も次第に波打っていく。 見つかって返り討ち 抜き足差し足、手拭で顔を隠した4人の男が大生寺の庭内に忍び込んだ。2人に見張りをさせて髭面とギョロ目が本堂に入った。
「気をつけろ」 黄金どころか… 「逃げろ!」 筑前国 志波村(現朝倉郡杷木町)の茂左衛門 肥前国 基山村(現佐賀県基山町)の甚左衛門 豊後国 日田郡の吉兵衛 筑後国 竹野村(現浮羽郡吉井町)の新左衛門 罪を重ねながらの逃避行 彼らは、筑後川を挟んで向こう側の、村の嫌われ者たちだった。4人にとって、「目撃者なき殺人」とたかを括っていたのが一生の不覚だった。実は、和尚を殺めるその瞬間を物陰から見ていたものが一人だけいたのだ。それは寺の小僧。小僧は駆けつけた役人にそのときの様子や、4人の人相などをこと細かく話した。「そうか、・・・街に俺たちの似顔絵が出回っとるち言うとか」 親分格の茂左衛門が腕組みしたまま唸った。 「こうなりゃ、遠くにずらかるしきゃねえぜ、兄貴」 ギョロ目の甚左衛門が髭面の茂左衛門を促した。逃げるといっても先立つ路銀がない。 「1人殺すも、10人刺すも罪は同じたい」 押し込み強盗を重ねながらの4人の逃避行が始まった。犯行の都度、とんまな4人は何がしかの証拠を現場に残している。肥前長崎にたどり着いたとき、奉行所は4人の包囲網を完全に狭めていた。 首は筑後川のほとりに 仏に仕えるものを殺めた重罪で、主犯格の茂左衛門は竹鋸引きの刑に、他の3人は火あぶりの刑に処せられた。奉行所は、刑場の露と化した4人の首を、犯行現場近くの大生寺近辺に埋めた。死後は生まれ故郷の筑後川を望む場所でとの、せめてもの奉行所のはからいだった。
「ああ、村のもんも、あんまり気味が悪いんで、4人の首を掘り起こして巨瀬川の清流で洗い、新しく墓を造って祭ったのじゃが・・・」 享保5(1720)年の大山汐(おおやましお=山崩れ)では、流川のところどころが崩れ落ちて、家々は押しつぶされ、畑は耕作不能に陥った。物語の大生寺も大被害を蒙ったと記録されている。「仏殿は山抜け大石洗い出し築き埋め、小僧1人死ぬ、仏具も洗い流し大破する」とある。大生寺は、そのときの天災まで賑わいだったのだろうか。 |