伝説紀行 浮島開基伝  久留米市(城島)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第184話 2004年11月14日版
再編:2017.06.04 2019.03.10
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

浮島開基伝

福岡県久留米市(旧城島町)


菊池十左衛門を祀る江島明神

 筑後川最下流域右岸の佐賀県側に、福岡県城島町(現久留米市)の飛び地がある。大むかしにできた中洲が時を経て右岸に繋がり、更に蛇行した川を直線化したために生じた、行政区画のねじれ現象だ。
 この浮島には安芸の宮島から厳島神社が勘請されていて、毎年正月29日には、島の繁盛を願い、英彦山神職による祈祷が行われているとか。さて、佐賀県側の福岡県の飛び地と英彦山の関係とは・・・

藩の命令で中州を水田にと

 慶長10年頃、江島村(現城島町江島)に住む菊池惣右衛門なる村長(むらおさ)が、殿さま(田中吉政)に呼ばれて柳河のお城に出向いた。田中吉政とは、関が原の戦いで西軍の大将石田光成を生け捕りした功績で、徳川家康から筑後国を与えられた大名である。彼は柳河の城に着任するや、有明海の干拓や筑後川周辺の水田開発を押し進めた。そんな折の惣右衛門への呼び出しである。


(写真は、浮島の厳島神社)

 お城に上がると、家老の子飼いと称する侍が裃(かみしも)姿で現われて、田中公の言いつけを伝えた。

 惣右衛門は、来る日も来る日も大川(筑後川)の岸辺にたって、川中に浮かぶ中州を眺めている。
「旦那さま、何か珍しかもんでも見ゆっとですか?」
 使用人の弥助が寄ってきて脇に立った。
「いやな。柳河の殿さんが、あの島を米がとるるごたる田んぼに変えろち・・・」
「あの、葦ばかり生えとるジュチャジュチャのとこ(ところ)ばですか? 舟をつくるこつも難しかですよ」
「そうたいねえ」
 弥助の言葉に納得したのかしないのか、惣右衛門が生返事を繰り返すとまた考え込んだ。筑後国の大名から「開拓せい」と命令されても、できることとできないことがある。でも、そんなことを言い返せば打ち首にだってなりかねない時代であった。もう一つの問題は、大川に浮かぶ島がゆえに、それがどこの藩に属するのかが問題だ。現に川向こうの佐賀藩では、「林慶島」と名づけて、自藩固有の領土だと宣言している。島に上陸するだけで武力闘争必至であった。

家人が坊主を連れてきた

「私によか考えがあります」
 弥助は、そういい残すと、忽然と屋敷から姿を消した。3日たって、山伏風の髭むじゃの男を連れて帰ってきた。
「どこに行っとったんじゃ、弥助?」
「は〜い、ちょっと彦山まで。旦那さまのお悩み解消のために、よか坊さんはおらんもんかと」
「それが、これなる御坊?」
「はい、良品坊という彦山で修行中の坊主でございます」


浮島周辺の筑後川


 男は、ギラギラ光る目をむきながら、惣右衛門に一礼した。
「彦山からの道すがら、事情は訊きました。あの葦だらけの泥濘の島を開拓なさるとか? しかも、隣国との諍いを覚悟の上で・・・」
「それはそうだが、彦山の修行僧にこの難問題が解けるのかな?」

神仏も・・・

「神仏の世界も、条件次第ですからね」
 良品坊と名乗る坊主は、ニタニタしながら意味深長な言葉を発した。
「何しろ、大川に浮かぶ中州に米のでくる畑ば造るという大事業ですからね。もしお祈りでそれができれば、あなたの申し出を何でもかなえますよ」
「それだけ聞けば、よろしい」
 良品坊は、屋敷の主人でもあるように、惣右衛門の家人に指図して、屋敷内に護摩壇を設けさせた。その後は一心不乱の読経である。読経は3日三晩続いた。惣右衛門も弥助も家人たちも、耐えられずにウトウト。さすが彦山で鍛えただけあって、良品坊はくたばらない。独特のギョロ目がますます威光を放ち、経を唱える声は屋敷中を振るわせた。4日目の朝があける頃、良品坊は惣右衛門を揺り起こした。
「彦山の神がお告げをくださる」
 このとき坊の後には、村の顔役や柳河城の家老の子飼いと称した侍も来ていて、地べたに頭をこすりつけて最敬礼。良品坊は、どこにこれだけのエネルギーが残っていたかと疑うほどの大声で「えーい」と九字を切った。
「吉でござる。中州の開拓は、7日後の正午に鍬を入れれば成功間違いなし、と」
「ははああ」

御幣流しで吉凶を占う

「だが、相手があることで・・・」
 家老の子飼いが言いにくそうに良品坊の顔をうかがった。
「分り申した。彦山の仏だけで不十分なら、山に宿る神々にも伺ってみましょう」
 坊は、弥助をまたも彦山に走らせ、3日後に大神宮の御幣をもって帰ってきた。
「これなるありがたい御幣を、上流1里より流します。無事、あれなる中州に着いたら、神が仏の託宣を追認なさった証拠でござる」


英彦山御坊

 弥助が持つ御幣にむかって、良品坊はさらに法華経を唱えて川下に流した。そして御幣の先端が中州の葦の根本に漂着した。
「これからは、あれなる中州を『江島新島』と呼ぶようにとの神のお告げでござる」
 良品坊は、お城の家老の子飼いに申し渡すと、その場に倒れて、気を失った。

総勢檀家入りが条件

「これからは、彦山の神仏を疑うことをいたしません」
 惣右衛門は、村の顔役ともども良品坊に頭を下げた。そして7日後の正午ぴったりに、砂利を満載した舟と、葦を刈るための鎌を持参した人夫30人を乗せた舟が江島新島に着岸した。もちろん、「いったんことあらば・・・」と、柳河城の武装した侍が待機した。
 用意周到が功を奏したのか、彦山のご託宣が効いたのか、対岸の佐賀藩は、形だけの抗議文を柳河に届けただけだった。
「さて、良品坊殿。彦山の神仏のお告げを守ったら、あなたが言われるとおり開拓の成功が見えました。そこでですが・・・」
 遠慮がちに惣右衛門がきりだした。
「はっきり言ったほうがよかですよ、旦那さま。良品坊殿が言われた『神仏の世界も条件次第』の意味を聞かせてくださいと」
 弥助が惣右衛門に耳打ちした。
「いえね、坊主の口からは言いにくいんだが・・・。実は彦山のわしの坊は、なかなかの貧乏寺で、檀家が集まらんのじゃよ。そこで、ものは相談だが、江島新島に移って開拓なさる御仁に、わしの寺の檀家になってくれるように頼んでもらえんじゃろうか」
 初めて会った時のふてぶてしさがどこに消えたのか、小さくなりながら頭を下げる良品坊の仕種が面白くて、弥助が思わず噴出してしまった。

島民が全員彦山の檀家に

 5年後の元和元年には、中州特有の潟も取り除かれ、砂利が敷き詰められて開拓の条件が整った。惣右衛門は一族を引き連れて移住し、開拓民の陣頭指揮をとることになった。島の名前も「新島」から、めでたい「有喜島」に変った。次々に開拓のために移ってくる住民のために、日頃から信仰する安芸の厳島神社の許しを得て分社を造った。また恩人の良品坊が持つ英彦山の坊に全員が檀家として加わることも申し合わせた。困難な開拓を成功させるためには、絶対必要な「人心の統一」を考える菊池惣右衛門の考えるところである。(完)

 現在、浮島には198世帯、881人が住んでいる。当初からの住民は少なくなったが、彼らは英彦山(彦山)にある良品坊の檀家の流れを汲んでいるとか。
 
筑後川の右岸を走っていると、「佐賀県」と「福岡県」の看板が交互に目に飛びこむ。地図を頼りに浮島に立ってみた。背振山地から流れてくる田手川が途中、中津江川と分離し、筑後川との間に三角州ができる。そこが「浮島」なのだが、大むかしに中州として大川に浮かんでいた面影はどこにもない。わずかに川岸に示された「浮島渡船場跡」の印が、在り処を教えてくれるだけである。

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