伝説紀行 筑紫楽の始まり  久留米市


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第176話 2004年09月19日版
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

平家が残した筑紫楽

福岡県久留米市善導寺・草野地区

春の弥生の あけぼのに
よもの山辺を 見渡せば
花盛りかも 白雲の
かからぬ峰こそ なかりけれ

花たちばなも におうなり
のきのあやめも かおるなり
夕暮れ様の さみだれに
山ホトトギス 名乗るなり

 上記の歌詞を読んでいると、いつしか「黒田節」の節回しを口ずさんでいる。そう、日本古来から歌われてきた「越天楽(えてんらく)」の一節である。もともとは唐の国から伝わった雅楽だそうだが、日本では、平安末期からこれに歌詞をつけて「今様」として流行したものだとか。
 ここ筑紫の国(福岡県南部地方)が、「筑紫楽」とか「筑紫舞」の発祥の地だと聞いた。それも、筑後川のカッパに大いに関係があるらしい。

川原から雅な音が

 屏風のようにそそり立つ耳納連山に降った雨が巨瀬川に集合し、やがて筑後川に注ぐあたり、善導寺(現久留米市)という。そのむかし、土地の人は筑後川のことを「千歳川」と呼んでいた。
 ときは室町時代、善導寺の僧・賢順(1547〜1636)が大川べりを歩いていると、心地よい調(しらべ)が聞こえてきた。葦の葉を掻き分けて水辺に出ると、砂原にゴザを敷いて10人ほどの女性が輪になっている。女たちは、それぞれに横笛や琴、尺八、鉦、太鼓、笙、鼓などの楽器を持って調子のよい曲を演奏していた。このあたりではついぞ聴かない品のよさと賑やかさを兼ね備えた曲であった。(写真は、耳納連山) 
 賢順の出現に驚いた女たちは、ただちに演奏をやめて、持っていた楽器を脇に置いた。
「私はすぐ向こうの寺で修行を積むもの。けっしてあなたたちのお楽しみの邪魔をするつもりではありません。あまりの美しい調に、ついつい近づいてしまいました。お許しください」
 賢順の素直な振る舞いに安心したのか、橘と名乗る女性がいきさつを語り始めた。

平家の子孫が・・・

「私どもは、壇ノ浦で滅ぼされた平家の血を引くものでございます。九州に上陸した先祖は、都の文物やご先祖をお祭りするすべを土地の方々に伝えながら生きてまいりました。このように集まって楽を奏であうのも、先祖の都での暮らしを偲んでいるのでございます」
「道理で雅(みやび)の世界を彷彿させたわけですね。それで…?」
 平家落人の子孫が、時々会ってむかしを偲ぶことは分るとして、なぜ川原でなければならないのか、千歳川のほとりでなければ駄目なわけは。
「これにも深いわけがあるのでございます。実は、平家一門のうち、生き残ったものは和布刈(めかり・門司)の浜に上陸して、南の山奥に隠れようと逃げたのでございます。平安恒(たいらのやすつね)さまに率いられた我らが先祖は、千歳川で行く手を阻まれ、追いかけてきた源氏方に打ちのめされました。平家の慣わしとでも申しましょうか、殿方は女子供を命にかけて逃がした後、追手との戦いに挑んだのでございます」
「それで、…?」
「なぜこのように淋しい千歳川の川べりで再会するのかをお尋ねでございますね。これにもまた深いわけが…」

カッパに変身

 平安恒以下平家の残党は、千歳川べりで源氏の追っ手を迎え撃ったが、ある者は斬り殺され、ある者は自ら腹を断ち割って果てる結果となった。安恒とその家来10人は最後まで戦ったあと、千歳川の濁流に身を投げた。「この恨みは、後の世で果たそうぞ」と言い残して。
 そして彼らは、千歳川と巨瀬川を棲家とするカッパに身を転じた。その後、周辺には天変地変が襲い、加えて流行り病が蔓延して何万人もの人が死んだ。川の水は涸れ、畑では米も野菜も育たなくなった。飢え死にした者が道端にゴロゴロ転がって異臭を放ち、野良犬でさえ近づかない始末。
「世間の人は、この災いを、殺された平家の祟りだと言います。そして私ら子孫もだんだん住み辛くなってまいりました。そこで…、笛や鉦など都から持参した楽器を持ち寄って、カッパになったご先祖さまを、恨みの亡者から開放してさしあげようとしたのです」
「果たして、その効果は?」
「はい、ひと月前の集まりの折、安恒殿の名を語るカッパが調(しらべ)につられて現れました。カッパが申しますには、善良な民が受ける災難は、けっして平家カッパのせいではないと。むしろ、溺れかけた人馬を助けたり、干上がりつつある田んぼに水を運んだりして加勢をしたのは我らだと。でも…」

平家死んでも楽残す

「カッパになったご先祖は、どうしても華やかな都の暮らしが忘れられないのです」
 橘は、カッパの心を癒すことが第一だと考えた。そこで、月に一度の川辺の演奏を続けることにしたわけである。一方安恒カッパたちは、女たちの真心に感謝して、やがて天に認められて神になった。筑後川と巨瀬川の水を管理する水神である。
「カッパが水神になって民の暮らしを守るようになってから後もなお、楽を奏でるのはなぜ?」
「はい、都の楽器と調を筑紫の国の皆さまにも覚えていただきたいのでございます。さすれば、神さまとなったカッパたちといっしょに、あらゆる困難と力強く闘えるはずですから」
 賢順は、橘ら平家の血を引く女性が奏でる音楽を、後の世に伝えていこうと心に決めた。これが、世に言う「筑紫楽」や「筑紫舞」の始まりで、現在も草野の祇園祭などで「草野浮流」として演奏されながら保存されているものである。やがて笛・鉦・笙・太鼓が作る楽や舞は、国家安泰、五穀豊穣、平家鎮魂などその時々の事情に合わせながら少しずつ変化し、今の世まで伝えられてきた。(完)

 何かにつけて唸りだす黒田節が、実は我が筑後の郷で掘り起こされた都人の音楽に由来することまでは知らなかった。ふるさとの人は、古代から今日まで一日たりとも筑後川の恩恵に授からない日はない。それもこれも水神さまのお恵みと考えて手を合わせながら享受した。
 むかしの人は、賢順が興した「筑紫流」を継承発展させながら、水神さまへのご恩返しにと都の雅楽を語り継いできたのである。
 今度巨瀬川に立ち寄ったら、僕からもよろしくお礼を申し上げておきますからね、賢順さま。

筑紫楽・・・鎌倉時代から北九州に行われた、箏を中心にした音楽。室町末期に衰え、筑紫流筝曲を生んだ。

筑紫筝・・・@雅楽の筝とその音楽に対して、俗筝一般とその音楽をいう。A筑紫で室町時代に起こった筝曲の流派とそれに使用した楽器。

筑紫流・・・筝曲の一流派。中世より久留米善導寺を中心として北部九州で行われ、近世筝曲の基となった。

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