鬼の棲む山?
【津江の酒呑童子】
大分県中津江村
酒呑童子山
奈良時代、豊後の奥津江(現在の中津江+上津江村)に聳える兵古山の中腹に、おんぼろ寺が建っていた。寺の主は寒厳といい、里の百姓さんたちには、「わしは霞を食ってでも生きていける」と言い放つ仙人気取りの老僧であった。
ある日の昼下がり、里の権三と嘉助がエッコラエッコラ山を登ってきた。
「何事じゃ?、わしゃ忙しいじゃけね、用件ば早よう言わんかい」
本当は忙しくもなんともないくせに、一応そう言わなければ気がすまない性格の持ち主である。
「お聞き及びかとも思いますが…、お向かいの酒呑童子山(1181b)に住む鬼どものことですが…」
「ふんふん、その鬼がまた何か悪さでもしたのかいのう?」
「悪さも悪さ、最近は度が過ぎます。あちこちの家のもんは盗むし、よか女子(美人の娘)とみればかどわかすし、村のもんはみんな困っとるとです」
「それで、わしにどうしてくれち言うんじゃ。わしもよる歳には勝てんでな、何だ、そのう…」
「成功報酬ならたんと払わせてもらいますけん」
「何が霞を食って生きている仙人なものか」、里人たちは寒厳和尚のいんちきを見破りながらも、そこは、神や仏にすがるしかなかったのである。
津江の山奥に唐人が
実は寒厳というお人、村人たちが疑うような安っぽいお坊さんではなかった。それどころか、人並みはずれた洞察力と念力の持ち主だったのである。だが、霞を食って生きられるかどうかだけは疑わしいかぎり。里人の悩み事など聞き、ちょっぴりながらお布施を頂きながらの慎ましやかな暮らしぶりであった。
酒呑童子の鬼の正体については、和尚の眼力でわかっていた。そんな折も折、見知らぬご仁がエッサエッサと兵古山を登ってきた。
「どなたじゃな?」
客人は唐の国からやってきた田伴と名乗った。
「私は国の方士(学者兼占い師)でございます。太宗(たいそう=功績が太祖に次ぐ帝王)さまのお使いで参上しました」
「わしの噂を海の向こうで聞いたとな。して、わしに相談とは?」
和尚は、まんざらでもない笑みで、仏壇を背にして田伴の話をゆっくり聞くことにした。
毒蛾が火をつけた
「太宗さまがお住いの御殿が、今まさに燃え盛っております。国の者が総がかりで消火に勤めておりますが手に負えず、ここは何とかご坊のお力添えをと」
田伴は、涙ながらに訴えた。
「して、火災の原因は?」
「それがでございます。祟りというものでございましょうか…」
田伴は、ことのいきさつを噛んで含めるようにして話し始めた。
夏の夜遅く、殿中で官女が裁縫をしていると、行灯の火を頼って1匹の蛾が飛んできた。官女は見たこともない蛾の大きさと毛色の気持ち悪さで、持っていた針で突付いて殺そうとした。ところがその蛾は、針を恐がるどころかあっと言う間に飲み込んでしまったのだ。
「そんな馬鹿な」と、官女はまた別の針で刺そうとしたが、それも瞬く間に飲み込んだ。何回やっても同じこと。
官女が差し出す数百本の裁縫針を飲み込んだ蛾は、眼光鋭く官女を睨みつけると、かすかな羽音を残して飛んでいき御殿の屋根にとまった。蛾が這うところ、たちまち葺いてある銅版が溶け、燃え始めた。
「太宗さまを安全な場所にお移しすると、御殿の者や都の住民が総がかりで火消しに勤めたのでございます。ですが…」
津江の坊主が火消しの役目を
太宗の住む御殿とは、日本人が想像するその何百倍も広くて大きいものである。倭国(日本)の九州くらいの建てつけ面積であろうか。したがって、燃え尽きるのだって何年もかかる。
「それで、…愚僧に頼みとは?」
「消して欲しいのです。大陸伝来の占いによれば、あの大廈(たいか・大きな家)の火を消せるのは、世界広しといえども倭の津江にお住いの寒厳僧正以外にないと出ております。太宗さまも、是非と頼んでおいででございます」
田伴は、何度も何度も頭を下げて唐の国に帰っていった。
「さて、いかがしたらよいものか」
寒厳和尚の思案が始まった。太宗の使いは、自分のことを僧正と呼んだ。加えて、世界に二人といない念力の持ち主だとも言った。里人からは、酒呑童子山の鬼どもを何とかしてくれと頼まれている。ここは、己の食い扶持と倭の国の名誉にかけて、双方からの依頼をいっぺんに片づける方法はないものか。
鯛生川の水を西方にかけ
寒厳和尚は、権三と嘉助を呼びつけてあることを言いつけた。そして己は、馬鹿でかい風呂桶を担いでスタコラ酒呑童子山の頂に登り、お経を唱え始めた。何時(なんどき)たったか、和尚は空(くう)に向かって語り始めた。まるで目の前の人に語りかけるように。
「ふむふむ、さようか、かわいそうになあ。そなたは1000年前の東周時代のお人なのか。何がそんなに不満なのじゃ?」
・・・・・・
「ふむふむ、それで、御殿の火事のことじゃが、…わしが頼んでも消してはくれぬか。なになに、消せるものなら消してみよとか?」
カッと目を見開いてしゃべる姿は、命がけの論争そのものだった。
「だれもいないのに変ですよ、和尚さん」
いつの間に登ってきたのか、権三・嘉助に連れられた村人百人が寒厳和尚を取り巻いていた。百姓たちはそれぞれに桶を背負っている。桶の中ではチャプチャプ水が踊っていた。
「何をおぬしらはそんなに震えておる?」
彼らは、酒呑童子山に住むという鬼を怖がっていたのであった。そこで和尚は、「大丈夫、今は鬼さんたちも留守にしているから」と慰めた。
「言われたとおり、鯛生川の水を汲んでまいりました」
村人らは、和尚に言われて、汲んできた水を風呂桶に注ぎ込んだ。
「よしよし、これからわしの言う『早よう火は消えろ』を復唱しながら、風呂桶の水を西の空に向けてかけろ。水が全部なくなるまでかけろ」
「でも、何のために?」
「悪い鬼どもをやっつけるためじゃ。わしが仏に訊いたところによると、鬼は鯛生の水が一番好かんとおっしゃっとった」
「だったら、『火は消えろ』じゃのうして、『鬼は外』でっしょもん」
「わしの洞察力と念力にケチをつける気か、おぬしらは! 黙って言うことを聞け!」
村人は、納得しないままに寒厳和尚の言いつけに従った。
坊主が大火を消し止めた
それから1年たって、中国風の礼装の紳士が数十人の供の者に、みやげの品を満載した牛車を引かせ、兵古山の寺にやってきた。いつかの田伴である。
「お陰さまで、御殿の火災は鎮火しました。それもすべて寒厳さまの念力の賜物でございます」
信じられない光景に、村人たちは驚いた。
「それで、例の気味の悪い蛾の正体でございますが…」
そこまで言ったところで、和尚が田伴の口を止めた。
「みなまでおっしゃいますな。愚僧には、あなたたちの難儀が解決すればそれでよろしいのですから。そこな荷物を置いて、さっさとお国へお帰りなさい」(写真は、奥津江地方の守り神・津江神社の大杉)
大火災の原因を言わなければと思っていた田伴は、なぜ口を封じられたのか分らないまま、貢の品を置いて唐の国に帰っていった。
「あのお方たちは、何者です?」
権三が訊いても、和尚は例によって多くを語らなかった。否、語りたくなかったのである。
果たして、毒蛾の正体は…
その実は・・・。
太宗の御殿を襲った毒蛾は、1000年前に滅ぼされた東周の王の一族の怨霊であった。いつかは報復をと、怨霊は100年に一度御殿を襲い、難儀をばら撒いてきた。だが、秦から漢へ、宋から隋へと権力が代わっても周の復活はますます遠のくばかりである。そこで一発逆転をと、怨霊は毒蛾に変身して唐の都を焼き尽くそうと試みた。その第一弾が太宗が住む大廈であった。
1ヶ月間燃え続けたが、燃焼したのは全体の1割だけ、そのうちに東方から怨霊を呼び出す声が聞こえた。行ってみるとそこは海の向こうの倭(日本)の国は津江の山奥だった。呼び出した坊主は、「罪のないものが困っておる。火を消してくれ」と迫った。そう言われても、1000年の恨みはそう簡単に消えるものではない。「もし火を消したければ、坊主が勝手に消したらよかろう」と捨て台詞を残して唐に帰ってきた。
ところが、直後に東方からの猛烈な風に乗って、1時間に200ミリもの雨が都中に降り注いだ。雨は、蛾が最も苦手にする金鉱の成分を含んで、何日間も降りやまず、遂に太宗の御殿の火災は鎮火した。焼け跡には、1匹の蛾の死体が転がっていた。
寒厳和尚は、成り行きのすべてをお見通しだったのである。だが、それを田伴や村人に打ち明けてしまえば念力も効かなくなる。第一そんなことを誰も信じはしないだろう。そこで案じたのが、酒呑童子山の鬼退治に引っ掛けて、生涯食うに困らないだけのお布施をいただくことだった。
「それでは、よそのものを盗んだり、娘をかどわかした酒呑童子の鬼はいったい何処に?」
「う〜ん、鬼な。確かに酒呑童子山には鬼がいた。おぬしたちが水をかけたので逃げていったが・・・。どこに逃げたかって? そんなことをわしに訊いても分るわけはないじゃないか。おぬしたちが胸に手を当ててみれば分るんじゃないか?」
未だに謎の多い奥津江の山々と人々の心の奥深さである。
「酒呑童子」といえば、鬼の面を被り住民を恐れさせて金持ちの蔵から財宝を奪い取ったり、美しい婦女子を略奪した極悪非道の盗賊のことで知られる。童子は、丹波・大江山の山奥に住処を持っていた。鬼も顔負けの童子を退治するため、源頼光(平安中期の武将)は、四天王(渡辺綱・坂田金時・碓氷貞光・卜部季武)を伴って山に入り退治する。お芝居や昔話に登場する有名なお話である。
そんな「酒呑童子」の名前をいただいた山は、カメルーンサッカーですっかりその名を馳せた場所のこと。大分県中津江村が熊本県菊池市と接するあたりに聳えていた。標高は1180メートル。
名前とは正反対に、このあたりの山は、春になると石楠花が咲き乱れ、登山者にとっては格別の山となる。ここで降った雨は鯛生金山のある鯛生川から下筌ダムを経て、筑後川へと流れていく。
そんなのんびりした山中に住む人たちの、口から耳へ、その繰り返しで今に伝わる。「大江山」とは関係のないスケールの大きなお話ではあった。
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