伝説紀行 善導寺由来  久留米市


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第174話 2004年09月05日版
再編:
2019.02.24
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。
お連れした唐の名僧
【善導寺の祖神】

福岡県久留米市善導寺

  
三祖堂内の善導大師坐像(中央)と、左聖光上人・右法然上人

 久留米市東部に井上山光明院善導寺(せいじょうさんこうみょういんぜんどうじ)という名の大きなお寺がある。承元2(1208)年に大紹正宗国師聖光上人(鎮西上人)が開基したものと伝えられる。たびたびの兵火に見舞われ、現在の本堂は、江戸時代中期の天明6(1786)年に再建されたとか。本尊は阿弥陀如来像である。


三祖堂

 本堂のすぐ南に建つのが「三祖堂」。その中央には、本物語を象徴する善導大師像が安置され、向かって右に浄土宗開祖の法然大師、左に本寺を開基した聖光上人が座っておられる。
 今回のお話は、中央の「木像善導大師坐像」の由来について。善導大師とは中国・唐の時代の名僧で、中国浄土教、殊に、曇鸞(どんらん)・道綽(どうしゃく)の思想の流れを大成した人と言われる。いわば「浄土宗」や「浄土真宗」の元祖に当たるお方である。

耳納に惹かれた旅の僧

「きれいじゃのう」
 ときは、鎌倉時代。九州各地を行脚中にしばし足を止めた旅の僧。屏風のように立つ耳納(みのう)の山並みに魅入っていた。山地から流れ来る巨瀬川が筑後川に合流するあたり。
「お坊さん、あの山がそんなに気にいったんかい?」
 いつ現われたのか、10歳くらいの男の子が不思議そうに僧の顔をうかがった。
「お前のような子供には、自然が織りなす美など難しいか。ほれ見てご覧、山が白い髭を生やしておるじゃろう」
「どこに…?」
 雨上がりに、それまで連山を覆っていた雲が上空に昇っていく際、白髭に見える様子を言っている。写真は、善導寺本堂脇の菩提樹
「本当だ。山にかかる雲が俺の祖父(じっ)ちゃんの髭に似ちょる」
「お祖父さんは達者なのか?」
「去年死んだ。父ちゃんも母ちゃんも兄ちゃんも弟も、みーんな去年の大水で死んでしもうた」

転寝の枕辺に中国の高僧が

「可哀そうに、一人ぼっちなのか」
「あちこちで手伝いをするとお金もくれるし、飯も食わしてくれるから、おいらは平ちゃらさ。でも・・・」
「何だ?」
「お坊さんの弟子にしてくれないかなあ。邪魔はしないから、いっしょにあちこちを見て回りたいんだ」
 文太と名乗る男の子は、真剣に志願した。僧は迷った。都を出て全国を行脚しながら、民衆の暮らしぶりをつぶさに観察するのが目的である。弟子などは不要であった。むしろ足手まといというもの。だが、目の前の子供は、肉親をなくして可哀そうだし、目の奥に信念のようなものが見て取れる。しばらくこの地に滞在して、もう少し彼の決意を確かめることにした。
 川原に結んだ庵で朝の勤めを終えた僧が、山地の変わりゆく姿に見惚れながら、ついうとうとしていた。


善導寺から見上げる耳納連山

「これこれ、そこなお人」
 呼ぶ声がして目を開けると、枕元に見知らぬお坊さんが立っている。
「私は、唐の国から来た善導と申す。明朝博多の津に上陸するによって迎えにきて欲しい」
 お坊さんは、用件を言い終わるとさっと消えた。

大師を迎えに博多津へ

「夢だったか!」
 目が覚めて、枕辺に立ったお坊さんのことを考えると、咄嗟に正座した。「善導」というお人は、唐の国の偉いお坊さんで、彼の説いた他力念仏宗が法然上人によって日本にもたらされた。いわば浄土宗の先祖にあたるお方である。
 善導大師は、人々が「南無阿弥陀仏」と阿弥陀如来の名を唱えることで、極楽浄土へ導かれると説いた。とはいっても、善導大師はずっとむかしに生きた人、僧にとっては雲の上の存在である。そんな偉いお坊さんが博多に現われるとはどういうことか。
「文太、出かけよう」


西公園から眺める現在の博多湾

 このところ寝起きをともにしている弟子願望の少年に声をかけた。博多の津(博多湾)まで10里あまり。1日かけて駆け、夕刻海の見える松原に着いた。
「わー、これが海か! 千歳川(筑後川の古名)なんて比べものにもならないや」
 文太が海の広さに驚いている。
「あの島(能古島)の向こうが、宋(唐の次代の中国名)に繋がる大海だ。大師ほどのお方であれば、この時代までご存命かもしれぬんのう。はて、いずこに?」

嵐の海で「南無阿弥陀仏」

 間もなく日暮れを迎えようとする時刻である。何隻かの大きな船が着岸していた。何人もの人が降り、博多の街に散っていった。だが、僧の目にはそれらしい人は映らなかった。みんな、肩に荷を担いだり、迎えの者の荷車に乗ったりした商人や役人風の人ばかりだった。僧は、荷降ろしで忙しそうな船頭に訊いた。
「ああ、あのお坊さんね。先ほど街の方に行ったよ。あのお方は宋の港から乗ってきた、みんなの命の恩人さ」
「どういうことですか、それは?」
「昨晩のこつだ。突然襲った嵐で海は時化(しけ)るし、こんおんぼろ船のこと、風前の灯じゃった。船底にいた連中もみんな甲板に出て、残してきた家族の名を呼んでいた。そのときお坊さんが舳先に座って、何やら唱え始めたんだ」


善導寺境内の菩提樹

 お坊さんの読経は段々大きゅうなって、嵐の海の暗闇をも突き破っていった。唱えているのは「南無阿弥陀仏」の繰り返し。「あなたたちも、愚僧の後について・・・、阿弥陀如来様のお名前を唱えなさい。きっと仏さまが助けてくださいますよ」と、甲板に集まった乗組員や客に促した。
「その後だ、南無阿弥陀仏の大合唱が始まったのは。どのくらいの時がたったかなあ。気がつくと満天に星がきらめき、海面は鏡のように静かになっていたんだ」

木像の大師が

「そのお坊さんのお名前は、何と?」
「何度訊いても教えてくれないんだよ」
 答える船頭も、恩返しができなかったことを悔しがっている。
「お師匠さん、さっきすれ違ったお坊さんがきっとそのお人だよ。急いで捜そう」
 文太は僧の手を引いて駆け出した。だがどんなに駆けても追いつけない。
「お師匠さん、あそこにお人が座っている」
 立ち止まった文太が、向こう向きに座っている僧を見つけた。
「お迎えにあがりました、善導大師さま!」
 答えがない。仕方なく前に回った。
「いかがなさいました?」
 恐る恐る提灯の灯りをかざすと、それは生身の人間ではなく、座ったままの木像であった。像はまさしく、朝方夢枕に立たれた善導大師そのお方であった。

名僧も耳納がお好き

「この偉いお坊さんも、お師匠さまと同じように耳納の山がお好きなんだよ。でなきゃ、迎いに来いなどとはおっしゃらないはず。お連れしてお祭りしましょうよ」
 文太は、自分が背負うからと言って僧に頼んだ。この子供には、自分に見えない善導大師の姿と心が見えている。文太は背中に坐像を括って、大人の僧より早足にお寺のある山本村に向かった。
「ここが大師が好まれる場所なのです」
 僧と文太は、庵に祭壇を造って坐像をお祭りした。この話を聞いた土地の豪族草野永平が広大な土地と伽藍を提供して、現在の善導寺の原型が出来上がったという。久留米の善導寺を開基した僧の名前は「聖光上人」。また、弟子になった文太は、その後上人の力となり後継者となって、寺の基礎を築いていくことになった。
 善導寺は、その後も九州全域から善男善女の熱い信仰を集めることに。江戸時代が終るまで鎮西(*)本山として門前町を形づくるほどの賑わいで、各地より僧徒や人々が集まってきたという。(完)

 鎌倉時代に開山された善導寺は、境内に足を踏み入れただけで、わが身を古(いにしえ)の世界に誘ってくれる。大小の伽藍やうっそうと茂る楠など、大きな声を出すのもはばかられるほどであった。主役の坐像は、善導寺三祖堂のまたその中央に安置されていた。座高は65.5a、まっすぐ正面を見て、両の手を合わせていらっしゃる。
 善導寺は筝曲の発祥の地で有名だが、筑後一円から赤ん坊の安産祈願の人々がお参りする寺としてもよく知られている。

*鎮西…745年、太宰府を「鎮西府」と称したことから言う。古来九州の呼び名であった。

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