伝説紀行 佐賀の怪猫伝  佐賀市


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第166話 2004年07月11日版
再編:2007.04.29 2017.11.26 2019.03.10
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

龍造寺の怨念

鍋島の怪猫伝


佐賀県佐賀市


龍造寺隆信の墓(向かって左側)

 劇場映画が全盛の時代。年末は「忠臣蔵」で、お盆には化け猫か幽霊話が出し物の定番だった。「化け猫」の筆頭が今回紹介する「鍋島」であり、それに「岡崎」とか「有馬」が続いた。佐賀市にある高伝寺は、佐賀藩主鍋島家の菩提寺である。墓所には歴代藩主の威風堂々の墓石が連なる。鍋島に向き合って、以前の権力者・龍造寺家の墓が並んでいる。龍造寺隆信といえば、山口の毛利元就や大分の大友宗麟などと激しく戦った戦国大名である。そもそも、鍋島は龍造寺の支配下にあった。


 天正12(1584)年、その龍造寺が薩摩との戦いで、総帥である隆信を失って以来、佐嘉藩内の力関係にも微妙な変化が見えてくる。原因は、家臣の鍋島直茂の台頭にあった。

殿の招きで出たっきり

 龍造寺隆信の死後、家督は幼子の龍造寺高房が継ぎ、鍋島直茂がその後見役に。やがて、「高房が成長したら返す」という約束で、直茂は37万7千石の大名についた。
 高房が15歳になっても、直茂に藩政を返す気配はなく、高房は22歳になって、鍋島を恨みながら自殺した。龍造寺側は、高房の子秀明をたてて幕府に復権を願い出るがそれも叶わず、やがて「怨念」となって化け猫騒動へと発展していく。


佐賀城跡

 ときは流れ、龍造寺方の直系は城下に住む又一郎一人だけとなった。その又一郎は目が不自由で、母親の(まさ)と、愛猫のコマを交えて細々と暮らしていた。
 ある日又一郎は、城主の鍋島光茂
(二代目)の言いつけで、囲碁の相手をすることになった。殿さまからの招きを断るわけにもいかず、又一郎は登城した。だが、行ったきり家には帰らず、城からも何の連絡もないままに。

愛猫に生き血を吸わせて・・・

 政は心配して、かねて付き合いのあった近習頭の小森半左衛門に尋ねた。だが、半左衛門は何も知らぬと突っぱねた。実は、碁の上での口論から、又一郎は光茂の手打ちにあい、小森半左衛門がその死骸を処理していたのであった。


佐賀城御殿(復元)

 ある雨の夜、愛猫のコマが又一郎の生首をくわえて戻ってきた。政はそれを見てことの始終を知ることに。龍造寺家で唯一生き残っている又一郎が殺されたいま、お家再興の望みは絶たれてしまったも同然である。
 政はコマに自分の生き血を吸って仇を討つよう言い残すと、ものすごい形相で城の方角を睨みつけ、懐剣で胸を一突きして息耐えた。

殿が得体の知れぬ病気に

 時期は過ぎて、何度めかの春が巡ってきた。小森半左衛門は、又一郎の死後、龍造寺家の血筋が断絶して母親が自殺したことを知った。また、政の遺体の周りの血が舐めたように拭われていたことに不気味さを感じた。だが、それも時間とともに忘れかけていた。
 夜桜の宴で城中がうきうきした気分に浸っていたそのとき。突然一陣の風が吹き、庭の雪洞(ぼんぼり)の灯がいっぺんに消えた。
「ぎゃあーっ」
 どこかで悲鳴が。家来が駆けつけると、侍女が喉を掻き切られて死んでいた。その日を境に、毎晩のように同じような事件が続くことに。人々は影亡き殺人事件に怯えたが、やがて城主の光茂も正体不明の病気にかかって寝込んでしまう。

 近習たちは、ただ事ならぬ事件の連続に警戒心を強めるのだった。

愛妾に取り付いて仇討ち

 光茂の愛妾お豊の方が光茂の看病にあたると、必ず光茂がおぞましい病苦に襲われる。
 小森半左衛門は、家中で一番の槍の名手である千布本右衛門(ちふもとえもん)に光茂の警護を命じた。本右衛門は寝ずに殿の部屋の内と外を見張った。お豊の方が入室すると光茂が苦しみだすことで、本右衛門は疑惑を抱いた。だが、相手は藩主の愛妾であり、迂闊なことはできない。


竜造寺隆信の菩提寺・宗龍寺(佐賀市)


 翌日の夜半、、また光茂が苦しみだした。本右衛門は意を決して殿の寝室に踊りこみ、お豊の方の胸を槍で一突きした。城内は騒然となった。「本右衛門、乱心でござる」。お触れは瞬く間に城中を駆け巡った。そのとき本右衛門、少しも慌てなかった。
 しばらくして、お豊の方の検死にかかった家来が驚愕した。殺されたはずのお豊の方の死骸はそこにはなく、横たわっているのは、体長が5尺(1.5m)もある黒猫が1匹だけだった。
(完)


高伝寺墓所

 久しぶりに高伝寺の墓所を訪ねた。鍋島家代々藩主の墓石が、順不同に東を向いて建てられている。対して西向きに建つのが鍋島家面々の墓である。唯一、中央で南向きなのが龍造寺家「遠祖」の「秀慶公」であった。まるで行事役のよう。
 本編でもお分かりのように、鍋島の化け猫騒動は、龍造寺と鍋島の権力騒動を、講釈師が面白おかしく仕立てたもの。でも、歴史は「化け猫騒動」よりもっと凄みをみせる。権力を奪われた龍造寺は、叶わぬ抵抗を最後まで試みる。新たに世継ぎ候補を担いで、幕府に訴え出るのである。それも徒労に終わり、龍造寺は肥前・佐嘉(佐賀)から完全に抹消されることになった。
 でも何だか変だ。高伝寺の墓では、敵対関係にあるはずの龍造寺と鍋島が対等の立場で並んでいる。もちろん、これは後の鍋島方が、領内の抵抗勢力を鎮めるための方策であろうが、あまりにも整然と墓石が連なっている様に、当時の権力闘争の奥深さを感じずにはいられなかった。
 徳川政権発足から400年、各地のお城の中の【歴史】の見直しが始まるかもしれない。肥前佐賀も例外なしに。(2007年4月29日)

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