伝説 六五郎橋由来 久留米市(城島町)
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僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。 |
六五郎橋由来 福岡県久留米市(城島町)
城を転々と移す西牟田氏 ここは筑後国の城島村。大むかしは、九州一の大河の脇にお城が座る町だった。時代は天正13年というから、織田信長が本能寺で討たれ(1582年)、代わって豊臣秀吉が台頭する頃のこと。庄屋の楢橋六左衛門が憂鬱な顔をして屋敷に戻ってきた。 筑後川の特性を生かした要塞造り 「殿は、大川(筑後川)の広さと長さを最大限生かした城を造れち言われる。つまり、城の西側の大川からは鼠一匹這い上がれん石垣を組めち。他の三面にはこれまでの濠を4条から5条に重ねろ。さらに濠の外側は、人や馬が近づけんごつ潟状にせよ、とのことだ」 大雨で工事はかどらず 死に物狂いの工事が始まった。川に向かっての石垣は、敵が絶対に這い登れないよう、水面から垂直に組む。他の班は、川に面しない三方に4重5重の濠を掘った。一番外側の濠の外には、水草や堆肥を埋めたりして足をとられ易いように工夫した。
「大友の軍が豊後の国境を越えてこちらに向かってくる。大将は大友宗麟の武将戸次道雪だ」 水神さまの言いつけで人柱に 「水神さまは、川に杭打つ人間ば許さんち言うて怒よらす」
「待ってください、旦那さま。私めに事情を聞かせてください」 庄屋主従に感謝して 六左衛門は、涙ながらに止める吾平を振り切って工事現場に走り去った。慌てて追いかける吾平。 戦国時代を経て、戸次道雪を義父に、同じく大友宗麟の武将であった高橋紹運を実父に持つ立花宗茂が城島の町を支配することになった。宗茂が関が原の戦いで西軍についたため徳川家康に追放され、代わって筑後全域を田中吉政の領土とした。その吉政も血筋が堪えて、再び立花宗茂が柳河藩主に。だが、城島の町は、久留米城を任された有馬豊氏の所領となり、そこで西牟田氏の権威は消滅した。(完) 「筑後川農業水利誌」でこの話を知って、これまで何気なく見ていた六五郎橋を見直した。改めて立ち止まると、なかなか趣のある橋である。「竜宮伝説」と人柱伝説がからんだ橋だと知れば、おろそかにはできない。今どうなっているのか、シュウゴさんと六五さんを祀った祠は…。ゆっくり探してみますか。 |