伝説 六五郎橋由来  久留米市(城島町)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第165話 2004年07月04日版
2016年08月21日 2019.03.10
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

六五郎橋由来

福岡県久留米市(城島町)


筑後川に架かる六五郎橋

城を転々と移す西牟田氏

 ここは筑後国の城島村。大むかしは、九州一の大河の脇にお城が座る町だった。時代は天正13年というから、織田信長が本能寺で討たれ(1582年)、代わって豊臣秀吉が台頭する頃のこと。庄屋の楢橋六左衛門が憂鬱な顔をして屋敷に戻ってきた。
「お殿さまから、10日以内に、いかなる敵も寄せ付けない強固な城郭ば造れち命じられた」
 六左衛門は、一族郎党を前に憂鬱のもとを話した。以前三潴一帯を支配していた西牟田家周(にしむたいえちか)は、佐嘉(佐賀)の龍造寺配下にあった。龍造寺が天正12年の乱で大敗すると、ここぞとばかりに豊後の大友宗麟が攻め込んでくる。家周は、その都度城を移し替えていたが、今度は大友軍の来襲に備えて、城島の地の利を生かした城を築くことにして、庄屋の楢橋六左衛門に命じたのだった。

筑後川の特性を生かした要塞造り

「殿は、大川(筑後川)の広さと長さを最大限生かした城を造れち言われる。つまり、城の西側の大川からは鼠一匹這い上がれん石垣を組めち。他の三面にはこれまでの濠を4条から5条に重ねろ。さらに濠の外側は、人や馬が近づけんごつ潟状にせよ、とのことだ」
 聞いている郎党たちがうんざり顔に変わった。
「敵にやられてしまえば元も子もなかけん、城主も家来も領民も皆殺しということになると言われれば、断れんし・・・」
 また郎党たちのだんまりが始まった。
「やるしかなかばい、ここは命がけでやらんば」
 最初に手を上げたのは、庄屋の子飼いの吾平だった。
「ばってん…」
「何ば言うか、これまでさんざん庄屋さんにお世話になったじゃなかか。こげなときに恩返しばせんで、いつするとか」

大雨で工事はかどらず

 死に物狂いの工事が始まった。川に向かっての石垣は、敵が絶対に這い登れないよう、水面から垂直に組む。他の班は、川に面しない三方に4重5重の濠を掘った。一番外側の濠の外には、水草や堆肥を埋めたりして足をとられ易いように工夫した。


現在の筑後川城島あたり

「大友の軍が豊後の国境を越えてこちらに向かってくる。大将は大友宗麟の武将戸次道雪だ」
 城から出てきた男が六左衛門に告げた。運悪いことは重なるもの。梅雨の末期で大雨が続き、見る見るうちに大川の水嵩が増していった。増水すれば石垣は組めないし、濠も掘れない。
 六左衛門は、神主を伴って水辺に祭る水神の祠でご託宣を仰いだ。

水神さまの言いつけで人柱に

「水神さまは、川に杭打つ人間ば許さんち言うて怒よらす」
 神主が六左衛門に、神の言葉を取り次いだ。
「それでは、どうすれば鎮まってくださるので?」
「人柱をたてよとのこと」
 民百姓とその家族の命を救うため。六左衛門は自分の命をシュウゴさん(竜宮さん)に捧げることを決意した。家に戻ると、白装束を取り出して工事現場に向かった。


六五郎橋近くの城址

「待ってください、旦那さま。私めに事情を聞かせてください」
「なんでもない」と言う六左衛門の前に吾平が立ちふさがった。
「分っています。旦那さまは村中の運命を一身に背負って、大川に身を沈めようとなさっとります。冷たかですよ。赤ん坊の折に大川端に捨てられていた俺ば拾うて、ここまで育ててくださった大恩人ではなかですか。俺に身代わりになって死んでくれとなぜ言ってくれんとですか?」
 吾平は誰はばかることもなく、大声で泣きだした。
「悪かった、吾平。だがな、お前はまだ若い。これから嫁さんばもろうて、いっぱい子供ば作って育てなきゃならん役目ば負っとる。それに比べ、わしはこの世に未練の少ない老いぼれたい。こういうときに役立つのなら、命なぞ惜しゅうはない」

庄屋主従に感謝して

 六左衛門は、涙ながらに止める吾平を振り切って工事現場に走り去った。慌てて追いかける吾平。
 翌日、昨日までの大雨が嘘のように止み、川の水嵩も減った。
「おーい、大変だ。庄屋さんが死んどらす」
 杭打ちをしていた男が叫んだ。
「こちらには、吾平さんが仏さんになっとるぞ」
 六左衛門は、白装束姿で手を合わせて死んでいた。吾平はというと、野良着のままである。突貫工事で進められた工事は、奇跡的に大友勢が攻めてくる前に完成した。城を攻めようにも、泥濘(ぬかるみ)と4重5重の濠、急傾斜の石垣と海のように広い筑後川が邪魔をして、どうにもならない。大将の道雪は、城島城攻めを諦めてまっすぐ西に向かった。
「庄屋さんと吾平のお陰で、城も村も助かったばい。このご恩ば忘れんごつせにゃない」
 村人は、シュウゴさん(竜宮さん)を川べりに、楢橋六左衛門と吾平(六吾さん)を土居の下に祠を建ててお祭りした。竜宮と六左衛門主従を祀った祠は、戦争のない江戸時代に入ってからも、筑後と肥前を行き来する渡し舟の安全を見守った。そして昭和の御世にできた大橋に「六五郎橋」と名づけた。

 戦国時代を経て、戸次道雪を義父に、同じく大友宗麟の武将であった高橋紹運を実父に持つ立花宗茂が城島の町を支配することになった。宗茂が関が原の戦いで西軍についたため徳川家康に追放され、代わって筑後全域を田中吉政の領土とした。その吉政も血筋が堪えて、再び立花宗茂が柳河藩主に。だが、城島の町は、久留米城を任された有馬豊氏の所領となり、そこで西牟田氏の権威は消滅した。(完)

「筑後川農業水利誌」でこの話を知って、これまで何気なく見ていた六五郎橋を見直した。改めて立ち止まると、なかなか趣のある橋である。「竜宮伝説」と人柱伝説がからんだ橋だと知れば、おろそかにはできない。今どうなっているのか、シュウゴさんと六五さんを祀った祠は…。ゆっくり探してみますか。

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