伝説紀行 おかしな敵討ち  柳川市(三橋町)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第161話 2004年06月06日版
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

おかしなおかしな敵討ち

福岡県三橋町

三橋町を流れる沖ノ端川

養父殿が殺されて婿養子が敵討ち

 柳河藩で剣の師範役を勤めていた新井瓢伍(ひょうご)なる青年が、矢ヶ部村(同じ藩)の光行家に養子に出されることになった。嫁さんになる女性は、それはもうたいそうな美形の持ち主だった。
 ところが、ある日剣道場から帰ってみると、花嫁さんがワンワン泣いてござる。彼女が指差す先の座敷には、血まみれになった養父の八左衛門が倒れているからだ。
「父上を殺害したるもの、隣村の床坂康成という友人です。将棋板を挟んで口喧嘩となり、そのうちに床坂康成殿は刀を抜いて、父の左胸を一刺ししたのでございます」
 花嫁さんは、鼻水をすすりながら旦那さまに報告しなさった。その夜、通夜に集まった親戚一同、ことの良し悪しはそっちのけで、敵討ちの相談とあいなった。
「相手はいつでも果し合いに応じると言っておる。もちろん返り討ちだと」
「それでは、こちらから正式に果し合いを通告しよう」
 衆議一決、敵を討つのは仏さんの婿養子の光行瓢伍とあいなった。
「あなたが死んだら私は後家でございます。そんなの嫌でございます」
 結婚して間のない妻が、また鼻水をすすって泣き出した。

いざ勝負となって、震えが止まらず

 剣の師範役といっても、子供に教える程度のもの。未だに真剣勝負などしたことのない瓢伍である。婿になってまだ三月、殺された養父に命をかけるほどの愛情なんて未だ備わってはいなかった。だからと言って逃げ出すわけにもいかない。
 思案している間に、果し合いの日がやってきた。柳河藩公認の殺し合いとあって、三柱神社の脇の広場には近郷近在から見物客が押しかけた。竹の柵で仕切られた中での果し合いだから、まるで鶏闘のようなもの。
 立花藩の重役が立会人となり、双方の家から後見人を出して、いよいよ瓢伍と床坂康成のご登場。白装束にきりりと鉢巻を締めて。かっこいい。竹柵の外は、身動きできないほどの観衆。
「いざ!」写真は、柳川の三柱神社境内
 康成が気合を入れたとたん、瓢伍がガタガタ震えだした。
「そのほう、怖気(おじけ)づいたか」
 康成が小声で語りかけると、瓢伍は「実はさようでござる」と素直に答えた。「そなたは拙者の首を取りに来たのではないのか」と問えば、「とんでもない。どうしたらこの喧嘩を回避できるかずっと考えていたところでござった」だと。

一太刀で仇は倒れたが…

「ご重役さま、緊張したせいで小便がしたくなりました」
 康成が膝まづいてお願いすると、かの重役どの。「丁度わしも催したとこじゃ、いっしょにまいろう」と、連れ立って出て行かれた。戻ってきた康成に、瓢伍が構えた。すると、康成がまたも小声で、「わしがわざと殺されよう。遠慮せずにかかって来い」
 そう聞いいて安心したのか、瓢伍は長刀を抜いて康成に斬りつけた。「しまった、すかされた!」と、前のめりしながら舌打ち。振り返ると、康成が倒れている。
「おい、まだ生きてるぞ。一突きにしろ!」
 柵の外から野次馬が騒ぎ出す。
「こんなところでよかろう。父の仇をめでたく討てて、さぞかしご本望であろう。めでたし、めでたし」
 柵の中の床机でことの一部始終を監査した藩の重役が、闘争終結を宣告した。未練がましく帰ろうとしない野次馬を、小役人が追い払った。
「死人など見たくない、早く仏を片付けよ」
 重役の命令で、担架に乗せられた康成の「遺体」が運び去られた。
「どうなってんの、これ?」
 返り血一つ浴びないで、本当に勝ったのやらどうやらさっぱりわからず、後見の叔父がブツブツ。でも、これで一件落着。瓢伍は晴れて敵討ちを成し遂げたのでありました。

平和主義”を貫く柳河藩

 ここは、柳河城の大広間。呼び出された瓢伍がただ一人待っていると、果し合いに立ち会った重役が、もう一人の侍を伴って入ってきた。何とそれは死んだはずの床坂康成であった。
「そなたは、やっぱり生きておられたか」
 瓢伍が驚く顔を見て康成はニコニコ。そこでやおら、ご重役。
「よかった、よかった。一時は本当に血を見るのかと心配したぞ。藩祖の宗茂公以来、わが藩は斬った張ったを忌み嫌う伝統を持つゆえ、本当は敵討ちなど困るのだ。だが、日本全国が我が藩の平和主義をなかなか理解しようとしない。幸い、そこにいる床坂が、果し合いが始まる前に小用を申し出た時、わしも同道して、策を与えたのじゃ」
「それでは、床坂殿は斬られてもいないのに倒れられた?」
「当たり前だ。まだまだそなたに拙者は斬れぬ」

 柳河藩の平和主義が、くだらない敵討ちのセレモニーで血を見ずに済んだ。それから間もなく徳川幕府が崩壊し、新政府によって敵討ち禁止令が発せられたから、この果し合い、すべての人の記憶から消え去った。文明開化のもと、行光瓢伍と床坂康成は、末永く親友づきあいをしたんだって。(完)

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