伝説紀行 千人塚  佐賀市(諸富町)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第157話 04年05月09日版
再編:2007.04.22 2018.03.11
 2019.02.17
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。
千人塚
佐賀県諸富町


昇開橋の袂に建つ「千人塚」碑

 旧諸富町役場のお方が、旧国鉄佐賀線(佐賀−瀬高)が筑後川を跨ぐ昇開橋の袂に建つ、何やら重々しい石碑の場所へ案内してくれた。お話によるとこの石碑、歴史に残る大凶作を忘れまいと、たてられたものだそうな。


☆印=千人塚碑

目の前で餓死者が

 それは享保年間(1716〜36年)のこと。筑後川土手の搦(からみ)浜を、旅のお坊さんが歩いてきた。
 お坊さんは、足元に転がる人間の死体にたかるハエや蛆虫(うじむし)を払いのけながら、出るは涙とため息ばかり。そこに、赤ん坊を背負った老婆がおぼつかない足取りで近づいてきた。
「お坊さん、孫に何か食べさせてくださらんか。腹ごしらえした後に、浄土に送り出したいんじゃがの」
 老婆は、お坊さんの衣の裾を掴んで哀願した。
「よしよし、おいしい粥(かゆ)を作ってあげるぞ」
 周囲のゴミを集めて火を起こし、頭陀袋(ずだぶくろ)の中の米を焚いた。
「おいしいか、坊や」
 赤ん坊は舌なめずりして喜び、お粥を一口すすって事切れた。その時、赤ん坊を抱いていた老婆もいっしょに死んだ。


(写真は、千人塚近くの搦浜)

「何とかならないか。江戸の将軍や武士たちまでもが、飢え死にしているわけでもなかろうに」
 お坊さんは、今亡くなったばかりの赤ん坊と老婆の遺体に向かって、「南無阿弥陀仏」を唱えた。

三界萬霊塔に願いを込めて

「そう言われても、役所も何もできん」
 番所に訴えでたお坊さんを、応対した役人が困った風。
「今年のイナゴとうんかの発生はすごか。稲穂の一粒も残さず食い尽くすんだから」
「わしが歩いてきた筑前も筑後も、それは悲惨だった。衛生状態も最悪だ」
「上役の話だと、今年藩内で飢えて死んだもの3万人だと。その上、お坊さんが言われる不衛生が原因の流行り病気で5万人が死んだというから、手の施しようもないのが実情だ」
 番所を後にしたお坊さんは、再び搦浜に出ると板切れに「南無阿弥陀仏三界萬霊塔」の11文字を書き、目を見開いて文字を読み続けた。その時、かつて京の都で修行した折、教えをくださった光胤御坊の幻が、お坊さんの前に立たれた。

「そなたが今やるべきことは、この災難の元を糾すことじゃ」
「それは、いったい・・・?」
 だが、御坊は答えを言う前にお坊さんの前から消えた。自分で解明しろとのお告げであろう。

戦国時代の呪いが今

 お坊さんは、近くの寺を訪ねて、老師に尋ねた。
「私も夢を見ます。それは、鎧兜(よろいかぶと)を被った兵(つわもの)どものことです。彼らがいったいいつの頃の兵なのか」
「御老師が知っておられる、この地方の戦とは?」
「徳川の御世になる前、肥前を支配した龍造寺との戦はしょっちゅうだったと聞いております。その時、討ち死にした兵は数知れず、弔うこともなく遺体は焼き払われたのでございましょう」
 その頃の戦で散った兵士が、未だ黄泉(よみ)の世界と現世の間を行き来しているのだろうか。お坊さんは、浜辺の漁師に心当たりを尋ねた。
「そう言われればこのところ、戦国時代のものと思しき人の白骨や火の玉をよく見かけます」

 お坊さんは、漁師たちの手を借りて、それら白骨を集め、浜辺に建てた「南無阿弥陀仏三界萬霊塔」の経板の周囲に埋葬した。そして、一心不乱に拝んだ。
「南無、お釈迦様。戦で死んだ兵の霊を、無事そちらの界にお導きくだされ。さもなくば、まだまだ罪なき人々の犠牲は増えまする」

死者を祭って

 それからしばらくたつと、肥前地方のイナゴやうんかは潮が引くように消えてなくなった。幕府から届いた食料もいき渡り、病人や死者も激減したという。
「身を粉にして人を救い、経を唱えたあのお坊さんは何処へ?」
 老師や搦浜の住民が旅のお坊さんを探したが、どこにも見当たらなかった。
「ご恩を忘れまいぞ」
 村人たちは、お坊さんが書き残して行った「南無阿弥陀仏三界萬霊塔」を石碑に刻んで「千人塚」と呼び、有明海を望む筑後川の岸辺に建立した。享保6(1721)年である。

 数年前に千人塚を訪れたとき、旅のお坊さんが書いたという「南無阿弥陀仏三界萬霊塔」の文字がよく見えないくらいに風化していた。今度はどうだ。真新しい御影石に金文字で彫られていてはっきり読める。
 決してこの石碑が観光目的にならないことを願うのみである。
(完)

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