伝説 身代わり如来  朝倉市(杷木町)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第150話 2004年03月21日版

09.02.08
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

身代わり如来

福岡県朝倉市(旧杷木町)


如来の片袖と復元された如来像

第15話のあらすじ…

 時は400年くらい前のこと。筑前の久喜宮(くぐみや・現杷木町)に、気性の荒い青木弾正頼近という郷士がいた。心根の優しい奥方に、「農民が嫌がることをしてはいけません」とか、「無益な殺生は仏さまがお許しになりません」と諌められるのがうっとうしくて、ある晩お寺帰りの奥方を闇討ちにした。直後に何事もなかった顔で奥方が帰ってきたので驚いた弾正が殺害現場へ。残された血痕をたどっていくと、玉泉院の本尊に祭られている阿弥陀如来の片腕が切り落されていた。「さては如来さまが、わが妻の身代わりになられたか」と、頼近はその場にひれ伏すのであった。

筑紫の山中に廃寺の礎石が

杷木町北方の筑後川を一望できる小高い山に、仏像の片袖だけを祭った祠が建っている。前篇(西日本新聞3月14日掲載)で紹介した玉泉院の阿弥陀如来の片袖である。
 その阿弥陀如来が、奥方の身代わりになられてから数十年が経過し、世は戦国時代のど真ん中。九州制覇の野望に燃える豊後の大友宗麟は、筑前の秋月領に攻め込んで、お寺といわずお宮といわず、焼き討ちにしてしまった。

 総攻撃に出た大友勢は、久喜宮村の人たちが大切にお守りしてきた玉泉院にも火をつけた。
 それから更に時代は下り、関が原の戦を経て徳川の時代に。筑前福岡城には黒田長政が入封する。長政は筑後河畔の麻底良城主(まてらじょうしゅ)に重臣の栗山備後利安を任命した。
 備後の奥方千代姫は、城を出て筑後川の景色を眺めるのが大好きという風流なお方であった。今日も侍女を連れて久喜宮付近を散策中。

「あれが、戦国時代に大友勢に焼き討ちされた玉泉院の跡でございます」(写真:久喜宮で如来の片袖を祭っている祠)
 地元で育った侍女の竹乃が指をさした。あたりは鬱蒼とした筑紫山地である。そこに礎石だけが残る廃寺跡が見えた。

朽ちたお堂に片袖如来が

「お方さま、そこらにはマムシや毒蛾などいるやも知れません。お気をつけください」
 竹乃が、薄暗い薮の中に入っていく千代姫を心配して止めようとするが、聞いてくれない。
「竹乃、こんなところにお堂が」
 雑木が繁る薄暗い中に、朽ち落ちそうなお堂が建っていた。
「祖母から聞いた話を思い出しました。大友に焼かれる前の玉泉院には、阿弥陀如来像の片袖だけを祭った祠が建っていたと
 竹乃が、腐っている扉を力づくでこじ開けた。そこに、埃を被った如来像が転がっていて、千代姫にはそれが、誰かに助けを求めているようにに見えた。
「これこそ、青木弾正頼近によって片袖を失った身代わり如来さまです」
 竹乃の話を聞いた千代姫は、如来像を麻底良城脇の館に持ち帰り、念持仏(自分の部屋に安置して敬う仏のこと)としてお祭りした。

片袖恋しや

「千代、そなたがお連れした片袖の如来像のことだが…」
 しばらくして、夫の栗山備後が千代姫に語りかけた。
「はい?」
「片袖が斬りおとされた如来さまのことじゃが、どうも気持ちが落ち着かなくてな」
「どうしてです?」
「そうは思わないのか。弾正とやらに斬られて片袖になられたのなら、どこか近くにもう一方の袖が残っているはずじゃ。一緒にしてやらねば、我らとて如来さまに恨まれよう」
 そんな夫婦のやりとりがなされている折、館に久喜宮村の大庄屋を勤める養父助左衛門が冴えぬ顔をしてやってきた。
「お殿さま、昨夜枕元に仏さまが立たれまして」
「何事じゃ、訳を話せ」
 志波の出城ともなると、城主と大庄屋との間に高い垣根はなくなる。ある時には、一緒に魚釣りなどを楽しむことだってある。
「はい、お方さまのお部屋に祭ってある如来さまのことでございます。夢枕の仏さまは私めに向かって謳われるのです」
『古里に衣の袖を残し置く また久喜宮に帰り着衣(きごろも)』
「あの片袖の如来さまは、藪の中の朽ちたお堂がお気に入りなのではありますまいか」
 助左衛門は、お城に不幸が参らぬうちに、片袖の如来像を元の場所に戻されるよう嘆願した。
 夫と助左衛門の話をそばで聞いていた千代姫の血相が変わった。
「助左よ、そなたの気持ちはよくわかる。だが、私はお連れした如来さまに毎朝毎晩手を合わせておる。もしも適うなら、お前の枕辺に立たれた仏に伝えて欲しい」
 姫は、筆立てを持ち出して、助左衛門が伝えた歌にお返しの歌を書きとめた。
『古里に衣の袖を残し置く 訪ねてそれを取りて着衣』

ご本体と片袖が離れ離れに

 備後は家来に言いつけて、玉泉院跡を片付けさせ、もう片方の袖を探した。
「ありましたぞ」
 家来の一人が叫んだ。館に持ち帰り、安置した如来像に合わせると、まさしくぴったり合致した。
「千代、よかったな。両方の手が揃って仏さまも喜んでおられる」
 備後は、愛妻の肩に優しく手を置いて労った。
 年月がたって、備後がこの世を去り、息子の栗山大膳が跡を継いだ。未亡人となった千代姫は仏門に入り、「栄長院」と号した。
 その後起こった、いわゆる「黒田騒動」で大膳が追放されると、千代姫は実家の長門・毛利家に戻されることになり、如来像もお連れすることになった。いよいよ志波の館を引き払うという日、養父助左衛門が涙ながらに千代姫に訴えた。写真:大事に保管されている如来の片袖
「お方さままでこの地を去られたのでは、これから先久喜宮の者は、何を拠り所に生きていけばいいのでしょう。どうぞ、如来さまの片袖だけでもこちらにお止めくださいますよう。さすれば、お方さまがどこにおられても、私らの気持ちは一つでいられるのです」

人が結びの役目

 こうして、玉泉院のご本尊である阿弥陀如来像は、海を渡り長門(山口県)の豊浦郡高山に。残された片袖は、久喜宮村の揚地区に住む稲積家で保存することになった。
 栄長院が亡くなって、如来像は下関市の善勝寺に預けられ、現在に至っている。善勝寺では、片袖如来を「袖乞い如来」とも呼び、近郷の住民に大切にされているとか。今でも、久喜宮から善照寺にお参りしたり、下関から久喜宮に来たりして、交流が続いているそうな。
 久喜宮地区の稲積家の奥さんに抱かれた片袖から推定するに、如来像の背の高さは一米くらいか。頼近の奥方が通った玉泉院跡は、けっきょくわからずじまいだった。(完)

ページ頭へ    目次へ    表紙へ