伝説紀行 椋の霊木  日田市


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第149話 2004年03月14日版
再編:2007.07.23
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

椋の霊木物語

大分県日田市

 

 日田市を流れるところ、筑後川のことを「三隈川」と呼ぶ。温泉街のすぐ上流、三隈大橋のたもとには、夏場になるとアユの簗場として賑わう竹田公園がある。
 河川敷を散歩していたら、岸辺に立つ大きな椋の木が目に入った。そのすぐ脇には「双つ頭地蔵尊」が祭られていた。

慈悲深い沢庵さん

 そのむかし、三隈川は蛇のように曲がりくねっていて、椋の木も水際に立っていた。地元の方は、この木に霊が宿っているとして、大切にしている。今でこそ、川岸が地上げされて水害の心配も少なくなったが、その頃は、ちょっと雨が降るだけで周辺の家や家畜は流されてしまったそうな。
 このあたりを若宮村といって、民家も十数軒あるだけの寂しいところだった。村の中央にはお寺さんがあり、お坊さんの名前を沢庵といった。大変慈悲深いお方で、村人の難儀を何べん救われたことか。
「村の子供がお腹をすかして泣いているのを見るのが苦しい」と言って、自分が食べるものをくれてやったりもした。(写真は双つ頭地蔵尊)

 ある時、沢庵さんが粟飯を食っているのを見て、村の与八が訊いた。
「和尚さんはよっぽど粟が好きなんじゃねえ」と。すると和尚さん曰く。
「好きで粟を食しているのではない」と。
「和尚さんには、わしらが麦とか米をばさらか持ってきちょるのに、なぜ?」と訊いた。
「よいかの、誰だって粟より麦がうまいに決まっちょる。その麦より米のほうがもっとおいしい」
「それなら、なぜ?」
「どうして米を食べないのかと訊きたいのか。よいか、毎日米のご飯を食している者は、もっとおいしい米はないものかと探すじゃろうが。人の欲にはきりがないちゅうことじゃ」
「・・・・・・」
「お金だってそうじゃ。お金持ちはもっともっとお金を欲しがる」
「もう一つだけ訊きたかとですが。偉い人間というのはどんな人のこつば言うとですか?」
「難しいのう。わしが考えるに、他人を思いやる気持ちの持ち主のことじゃないかな」と、一言だけ。

子供の命を大切に

 村で赤ん坊が生まれそうになった。大変な難産で、親も兄弟も「子供は捨てても母親の命を助けてください」と豆田から来たお医者さんに頼んだ。
 その話を聞きつけた沢庵さんが駆けつけたとき、妊婦は生死の境にあって、うめき声も小さくなりかけていた。和尚さんは庭に座り込んで必死の形相でお経を唱えた。


椋の木のそばの祇園祭


「南無観世音菩薩。どうか母とお腹の子を救いたまえ」と、一晩中祈り続けた。
 夜が明ける頃、家の中から「おぎゃー」と、元気のよい赤ん坊の泣き声が聞こえた。庭で沢庵さんがお祈りしていることを知らないお父さんやお祖母さん、そして産婆さんも手を取り合って喜んだ。
 何日かたってその家を訪ねた沢庵さんを、赤ちゃんにおっぱいを飲ませながらお母さんが迎えた。
「大変だったのう。きつかったろう」
 沢庵さんは、まだ名もない赤ちゃんの頭を撫でながらお母さんを慰めた。
「この子がお母さんの命をとろうとしたんだからな」
 お母さんは、沢庵さんの言う意味がわからず、我が子の顔を見つめていた。
「憎くはないかえ、あんたの命を奪おうとしたその子が」
 お母さんは小さく首を何度も振った。
「何が憎いものですか、和尚さん。私のおっぱいに食らいついている赤ん坊の顔を見てください。ほら、今私の目を見て笑いましたよ」
「もしあの時、あんたが死んでいたとしてもか?」
「はーい、同じです。もしここに鬼が現われて、お前か赤ん坊か、どちらかの命を貰うと言ったら、私は喜んでこの身を差し上げましょう」
「そうしたら、誰がこの子を育てるのかな」
「母親の私が天国で仏さまにお願いして、見守ることにいたします。そうすれば、村の皆さんがきっと、大事に育ててくれるはずです」
 沢庵さんは、お母さんに謎をかけたつもりだったが、逆に教えらた気持ちになった。
「よく言いなさった。生あるもの、誰もが子孫を残そうとする。例え我が身を犠牲にしてもじゃ」

西国浄土から村を守る

 時は下って明治22年7月5日のこと。近年にない大雨で三隈川が氾濫した。雨はますます激しさを増し、このままだと村ごと大水に飲み込まれそうな勢いだった。与八が沢庵さんを助けようと寺に駆け込んだ。
「和尚さん、早く逃げないと命が危なかですよ」
 ご本尊に向かって経を読む沢庵さんは、与八の声が聞こえたのか聞こえないのか、目をつむったまま数珠を回していた。和尚さん、今なら助かります。村のもんはみんな高台に逃げました。和尚さんもどうか・・・」
 その時やっと後ろを向いた沢庵さん。
「私は仏さまに仕える身です。御仏を置いて自分だけ助かることはできません。与八よ、村の衆に伝えておくれ。私はこれから、ご本尊とごいっしょに西国に行き、皆さんの無事を仏にお願いしますとな。それから与八、お前は、竹田の椋の木に登りなさい。そこで仏さまを拝みなさい」
 テコでも動かない姿勢であった。頑固な坊さんもいたものである。仕方なく与八は外に出た。龍が舌なめずりするように、三隈川から溢れた水が与八を飲み込もうとする。
 与八は、沢庵さんの言いつけどおり、目の前の椋の木によじ登った。濁流に押し流されそうになりながら、椋の木は踏ん張っていた。木の上から寺を見ると、お堂ごと静かに流されるところだった。屋根には沢庵さんが跨っていて、両手にしっかりご本尊の観世音菩薩を握り締めていた。


椋の樹前の竹田公園で歓声上げる子供たち


「和尚さまは仏さまの化身じゃったつばい。西方浄土にお帰りになった」。
 与八は、溢れる涙を拭こうともせず、寺が沈んだ水面をいつまでも見据えたままだった。

心無い役人に“渇”

 寺を失った村人は、与八を助けてくれた椋の木のそばにお地蔵さんを祭って、感謝の念を忘れまいと心がけた。
 その椋の木、建設省の護岸工事で切り倒されそうになったことがある。村人たちは、仕事を放り投げて、木を伐らないように陳情した。だが、融通の利かない役人のこと、道路にかかる一番大きな枝を切り落としてしまった。
 沢庵さんの時代以来、大水の時でも子供の木登りでも、犠牲者が出たことはなかった。沢庵さんの願いが叶い、霊を宿らせた椋の木が救ってくれるからだと村人は信じてきた。その椋の木も、とうとう堪忍袋の尾が切れたのか、その年少年が椋の実を取っていて足を滑らせ、命を落とすことになった。
 簗場のそばで、大きく枝を張る「ご霊木」は、今も村(日田市に合流している)の人たちを見守り続けている。この大樹、樹齢は300年と案内板に記してあった。(完)

 最近またぞろ、親が子を虐待して殺す事件が新聞紙上を賑わわせている。許せない。自分で産んだ子が、「まとわりつくのが嫌だから」と殴り殺す。どんな獣でも、敵が子を襲おうとしたら、我が身を犠牲にしてもかばうものだ。それが生き物の本性なのである。
 留置場や刑務所に囲われている奴だけではなく、今もどこかでそういう親がのさばっているに違いないと思うと、身の毛がよだつ。(2004年3月14日)


 数年ぶりに三隈川の椋の木を訪ねた。丁度日田祇園祭の最中だった。2週間前には、日田から朝倉まで筑後川一帯を猛烈な雨が襲った。日田でも3人の犠牲者が出て、花月川に架かる久大線の鉄橋も流された。130年前に寺の和尚さんに促されて、村の与八がよじ登った椋の木。あの日と同じ地獄の光景を恨めしそうに眺めていたのだろうか。
お陰さまで、大樹も周辺の民家も無難に済み、亡くなった方々の供養を兼ねた祇園祭が例年通り行われた。
 そんな歴史もま知らぬげに、子供たちは若宮神社前の公園に造られたプールで元気よく水しぶきをあげていた。(2017年7月22日)

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