伝説 日吉の十三塚  広川町


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第147話 2004年02月29日版
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。
つつじの毒と十三塚

福岡県広川町


広川町日吉地区に残る十三塚の一部

 八女郡広川町のあちこちに、「十三塚」と称する土盛りが見られる。「十三」といっても現存する物の数が揃っているわけではない。見事なのは、その列が、正確に東西か南北をさして並んでいることだ。郷土史家の佐々木さんは次のように解説している。
「十三塚」は、関東地方と愛知・熊本県に多く見られます。十三塚には、丘陵上に並ぶ場合と平坦地に並ぶ場合があり、いずれも南北か東西に一直線に並ぶことでは共通しています。平坦地の塚には、概ね戦死者埋葬の伝説を伴っています。例外として、日吉地区のものは、神功皇后異国退治のとき、見せ旗として13本の旗を立てるために、13の塚を築いた(筑後泌艦)という異説もあります。発掘調査をしても出土品が出ないため、築造年代もわかりません」と。
 今回紹介する「十三塚伝説」は、全国的にも珍しい子供が埋葬されたというお話です。

 そのむかし(前記のように年代が不明だが、仮に江戸時代初期としておきます)、広川町の山の上のお寺に13人の子供が、頭陀袋のようなものに筆記用具とお母さんが作ってくれた弁当を入れて通っていた。ガキ大将は正太、次が正敏といった具合に序列があり、女の子はいつも小さくなっていなければならない。しかし、みんな大変仲のよい友だちである。
 ある日の、お弁当の時間。
「あれえ、箸が入っとらん」
 序列5番目の半平が舌打ちした。
「お前のお母ちゃん、いつでん(いつも)ぼさっとしとるけんな」
 序列4番の安蔵が冷やかしたものだから、半平が怒った。
「俺の母ちゃんは、日本一のよか母ちゃんばい。悪口言よると許さんけんね」
 半平と安蔵の掴み合いが始まると、女の子のトモちゃんが泣きだした。女の子の涙には滅法弱い序列トップの正太が中に入った。(写真は、整然と2列に並んでいたという塚の一部)
「喧嘩はやめろ、たった箸くれえのこつで。俺の箸ば半分に折って食えばよかじゃんか」
 さすがは番町の貫禄。喧嘩はすっかりおさまって、みんな仲良く土手に座り込んだ。
「わざわざ箸ばおしょらんで(折らなくても)よか、正太。箸の代わりならいくらでんあるたい」
 半平は、斜面の山つつじの枝を折って箸の代わりにした。

 お昼の休みが過ぎてもお堂に戻ってこない子供たちのことが心配になった和尚さん。庭に出てみると、子供たちが泣いている。輪の中に半平が倒れていて、腹を押さえてもがいていた。
「しまった!」
 最初は食あたりかと思ったが、どうも様子がおかしい。序列一番の正太が弁当の箸の代わりに山つつじの枝を折って使ったと言ったから、和尚さんが慌てた。山つつじの樹には、猛毒が含まれている。そのことを子供たちに教えていなかったのだ。
 お医者さんをといっても、ここは山の中。街まで使いをやっても間に合わない。半平は、苦しみながら死んでいった。
「わしが悪かった」
 和尚さんが泣くわ泣くわ。どんなに泣いても死んだ子供が帰ってくるわけはないし。駆けつけた親御さんたちと、盛大に合同葬を営んだ後、仲良し13人のお骨を分けてもらって寺内に埋葬した。  お墓は横一列に並べて、この切なさをいつまでも忘れないようにと、大小石を積み上げた。この時に築かれた13個の塚は、現在も梯地区の山中に完全な形で残っているという。(完) 

 佐々木さんに案内してもらった日吉地区の十三塚は、広川町特有の梨畑の中にあった。
「昔はもっと大きな塚だったのでしょうが、お百姓さんたちが少しずつ削っていって小さくなったようです。なにしろ塚ですから、取り払ってしまったのでは祟りが恐いです。だから、こしていつまでも残るのでしょうね」だと。
 言われて見渡すと、点々と土盛が並んでいる。高さが3b、直径も7〜8bはありそうで、畑の中では大変珍しい光景であった。

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