境目観音
2007.04.22
福岡県東峰村(小石原)
浄満寺所蔵の境目観音(左)と大王杉袂の石造観音(右)
絶えることない国境争い
陶器の郷として有名な小石原村。この村は、福岡県を流れる2大河川、筑後川と遠賀川の水源地帯でもある。遠賀川の水は小石原村と英彦山を出発点にして筑豊から玄界灘に注ぎ込む。その間に筑豊地区の人々の体と田んぼを潤す。下流に行けば、北九州100万都市を支える命綱となる。
一方、小石原川の雑木林に貯えられた水は、加減しながら江川ダムへ。筑前・筑後平野の農業用水として、また飲料水として一日も欠かすことができない水を提供し続ける。ダムを下りた水は、やがて筑後川と合流して有明海へ。
小石原村は、英彦山詣でで賑わった江戸時代から昭和の初期まで、宿場町として繁栄した。その一方で、国境を挟んだ東側の長谷村と領土をめぐって争いが絶えなかった。「行者杉」のすぐそばには、約300年前に設けられた境界線を示す「境目石」が残っている。
観音さんが豊前に動いた
旅籠「綿屋」を営む喜助が、「お長屋」と呼ばれる境目奉行の屋敷に出向いた。喜助を呼んだのは、黒田藩から豊前との境界線を確定するために特別に派遣された関所番役目の梶原仲平である。仲平は、畏まっている喜助のそばによってきて囁いた。囁きは仲平の癖で、街の衆から「囁きの梶仲」とあだ名を貰っているほどだから、喜助も特に驚かない。
「実はな、喜助。藩から寄進を受けたあの馬頭観音のことだが…」
仲平が言う「馬頭観音」とは、日田街道(現国道211号)から英彦山に向かう杉林の中に祭られている石造りの観音像である。黒田藩主は、現地で国境をめぐっていざこざが堪えないため、境目に旅人の安全を祈願する馬頭観音像を祭ることで、それを国境と定めたのである。「ところが、いつの頃か、観音堂が境目から少し東の豊前側に動かれた。これでは、両藩の境目が皆目わからない」
「私らは、今でも観音さまは小石原に立っておられるち思うとりますが…」
「そうもいかんのだよ。豊前の奉行から、間もなく観音堂のそばの木を伐採すると言ってきたのじゃよ」
「そんなめちゃくちゃな話はなかですよ。あそこは筑前の小石原です」
「そうだろう。誰がいつ観音堂を動かしたか知らねえが、そんなことされたらこっちの顔は丸つぶれだ。せっかくこれから国境を確定しようとしているのに、話もできない」
仲平は明らかに怒った顔をしている。だが、声が小さいせいで、喜助には、それが機嫌のよい囁きとしか受け取れないから厄介である。
「そうですよね、そんなことになっちゃ、お奉行さまの役目もすったりですね」
「こらこら、俺のことをそんなに気安く言うな。これでもれっきとした藩の役人だぞ」
梶原仲平は、お城から遠く離れた宿場町でうまく仕事をするためには、まず現地の人間と仲良くしなければならない。上級武士としての威厳は保ちつつも、目線を相手と同じところに置かなければ、イザと言うとき彼らが協力してくれないことがわかっているからだ。
町屋衆の知恵
「それで、私に何をしろと言わるっとですか?」
喜助は腹を決めて忠平の口元に注目した。
「そちが小石原宿の顔役だから頼むんだが、長谷村(現田川郡添田町長谷)の連中に、しばらく木を伐らないよう働きかけてくれんか。その間に、俺が、豊前の関所と国境を決めるけん」
喜助は、急遽宿屋や雑貨屋などの主人を自分の宿に呼んで協議した。仲平の話だからやむをえないというのではなくて、たかが10間ほどの境目のずれが、大きく育った杉の木の所有権にまで発展したら、村にとってもけっして見過ごせないからである。
写真:浄満寺の観音堂
しばらくすると、宿屋仲間の日田屋の由蔵がよい話しを持ってきた。英彦山の麓で土産物屋をやっている豊前の男が、国境線が確定するまでは木は伐らないという。豊前の商人にしても、小石原の者に下手な喧嘩は売りたくなかったのだろう。
菩薩さんがお二人並んで
豊前側が木を伐らないと決めた後も、梶原仲平にとって難解な仕事が待っている。そこで例の囁きがまた始まった。
それからしばらくたって…。
「知っとるか、街道脇の馬頭観音さまのこつば?」
綿屋に宿泊している英彦山帰りの道者(参拝帰りの道中客)が、ペチャクチャしゃべっているのを主人の喜助がニタニタしながら聞いていた。
「行きには観音さまがお一人立っておられた。それが帰りには二人おらっしゃる。前からのは石でできとるのに、今度は木製だ」
「俺も気がついとった。お賽銭ばどっちにあげるか迷うたけんな」
「新しか木の仏さまは、石の観音さんより10間ばっかり西側にあるきゃんも」
突然現われた木像の馬頭観音に、旅人はもちろん、地元の村人もびっくり。それも木で彫った観音さまは、三面六臂(さんめんろっぴ=顔が3つ・手が6本)で、大変精巧に彫られている。何より形相がすごい。すさまじい怒りの形相は、旅人を恐れさせるに十分の出来である。
これこそ、梶原仲平が幾晩もかけて考え、福岡の城から許可を貰ってなした手段だった。仲平は博多で一番と謳われた仏師に、高さ一尺強の馬頭観音像を造らせた。出来上がった像は、これまでの石の像から10間西側に祠を建てて祭った。そばの立て札には「この菩薩像こそ、正真正銘筑前・豊前の境目なり」と墨黒々としたためて。そのことを綿屋に泊まった道者たちが噂していたのである。
仏さんの間が境界線
こうなれば、豊前方も黙ってはいない。
「こしゃくな、抜け駆けぞ、許せん」
豊前の関所役人が仲平に怒鳴り込んできた。相手の怒りようをまるで楽しむように、仲平は例の囁くような声で押し返した。
「何を申される。新たな菩薩像のことなぞ、拙者も筑前も何も知らぬこと。恐らく、両藩の醜い境目争いを見るに見かねた菩薩さまが、筑前・豊前の両藩に仲良くするよう、双方の領域にお一人ずつ立たれたのであろう」
「両藩の争いをなくすため」と言われれば、豊前の役人も二の句が告げられなかった。というのも、豊前小倉藩の小笠原家と筑前福岡の黒田家はもともと親類の間柄、殿様からは無用な争いはならぬと厳命されていたからである。
「いかがでござろう。ここは2体の観音さまの丁度真ん中を境界線としては」写真は、行者杉林の中の境目石
「それは良い考えでござる」
豊前の役人が仲平の蚊の鳴くような声の提案に、即座に賛意を表した。襖の陰でその様子を伺っていた喜助と街の顔役たち、顔を見合わせてにっこり。一方、賛成したあと「しまった、はめられた」と気がついた豊前側も、いったん武士が公式の場で発した言葉は後戻りが効かなかった。
英彦山街道の傍らの、2体の馬頭観音菩薩像の丁度真ん中を基点として、尾根伝いに境界を示す「境目石」を背中合わせに立てていくことになった。筑前側の境目石には、「従是□筑前領」とあり、豊前側は「従是□豊前小倉領」とはっきり記されている。
時は元禄14(1701)年のことである。奇しくも赤穂浪士が幕府の裁断を不服として吉良邸に討ち入りした年であった。
木彫りの菩薩はお寺深くに
「おまえらのお陰だ、今夜は俺の奢りだ、存分に飲んでくれ」
国境が確定して上機嫌の梶原仲平は、綿屋の座敷に町衆を集めて囁いた。
「梶原さまにちょっとお聞きしますが…」
京屋の為助が改まって仲平に尋ねた。
「今日、境目石を確かめに行きましたら、木造の観音さんがおられんとですよ。あげな立派な彫り物じゃけん、泥棒が持っていったとですかね」
「いや、その仏さんならうちに…」
為助の言葉を遮ったのは浄満寺の住職であった。
「なんでまた?」
「わしがご住職に頼んだんだ。境目がはっきりすれば、あそこに二人も観音さんはいらんじゃろう。お供えが多いの少ないのって、仏さん同士が喧嘩されても困るし。それに木で造ったものを雨ざらしにしていたんでは、すぐに痛んでしまう」」
仲平が、住職をかばうようにして説明した。(完)
進化しないは人間ばかり
あれから300年以上が経過して、英彦山に峰入りする修験の人たちが、一本、また一本と植えた記念の杉は、今や幹周り8b以上の大木に成長している。中でも「大王杉」や「境目杉」は、見上げるものを圧倒する。その行者杉の根元に、「従是筑前領」「従是豊前小倉領」の、背中合わせの境目石を見守るようにして、石の馬頭観音がにらみを効かせておられた。
更に行者杉から西へ1キロいった浄満寺には、梶原仲平の決断で運び込まれた木像の馬頭観音像が「秘仏」として、奥深く安置されていた。
時を経て、杉はますます大きく枝を張り、仏様は泰然と民衆の生業を見守っておられる。ところが人間はというと、「我が身愛しさ」の知恵袋だけが発達して、用もないダムを造ったり、魚が棲めない護岸工事をしたり、獣が行き来しにくい道路ばかり造りたがるようになってしまった。人間は、成長というより退化するばかりの生物なのか。
せめて、せめて、小石原の杉の大木群と、保水機能をもつ水源地帯の雑木林だけには触らないで欲しいと願うばかりである。
|