我がまま庄屋
大分県日田市(中津江)
庄屋屋敷があった中西地区
大分県中津江村で有名なものと問えば、誰もがワールドカップサッカーの「カメルーンのキャンプ地」と答えるだろう。村の有名人となると、それは坂本休村長でしょう。
でも、中津江村で忘れてはいけないことがもっとある。昭和30年代に現在の下筌ダムを造るさい、全国の注目を集めた「蜂の巣城」の戦いがそれ。筑後川下流域で暮らす誰もがお世話になっている水は、ここから始まる。ダムを遡って鯛生川(たいおがわ)に入り、そのまた支流の中西川を遡って行く。そこには、「この河川は、筑後川の最上流源聖域です」と書いた立て看板が立っていた。だから「生活・産業廃棄物等を投棄しないでください」とも。私たちの飲み水は、こうして源流域の皆さまの絶え間ない努力があって可能になっていることを、学習しなければと再確認させられた次第。
豪邸新築の木材に無理難題
立て看板からさらに登ったところに、10軒ほどの集落があった。目指す中西地区である。見渡す限り山また山の中の小さな集落である。江戸時代までここは中西村といい、総面積89平方`の西側ほぼ四分の一を取り仕切る庄屋が住んでいた。庄屋の名前は記録になく、仮に兵児左衛門(へこざえもん)としておこう。若くして庄屋になった兵児左衛門どんは、中西・祝川・原・藤蔵・山本・高迫・石場・才野・小平田・鯛生・市ノ瀬・柿の谷にある60戸の家を仕切る長(おさ)である。
大変な色男で女にももてたらしいが、30歳を過ぎても、お坊ちゃま特有のわがままな性格から抜け出せないでいた。父が死んだ後兵児左衛門は、庄屋に相応(ふさわ)しい豪華な屋敷を造ろうと計画した。下働きをしている大工と木こりの正蔵を引き連れて、適当な材木を求めて歩き回った。
滝の口まで来て兵児左衛門は、「あの桂を鴨居に使え」と二人に命令した。
「待ってください、あの古木には山を守る主が住み着いていまして、あとで祟りを受けます」
伍助が怯えながら答えた。
「木に山の主などおるわけがない」
正蔵は、仕方なく手下のものに斧を振り上げさせた。切り口が半ばまで来たとき、頭上から1bもある大きな白蛇が地上に落ちた。正蔵も手下も震えながらその場に尻餅をついた。
「馬鹿もん、殺せ! 縁起でもない」
兵児左衛門が怒鳴ると、正蔵は仕方なく斧で蛇の鎌首を切り落とした。
霊が宿る老木もなんのその
一行は、今度は梅野の見晴らしのよい場所に出た。そこには樹齢数百年といわれる杉の木が一本だけ枝を張って聳えている。木の根元にはうずたかく石が積んであった。
「この木を床柱に使う。伐れ」
「こればかりは、ご勘弁を」
伍助が泣きそうな面で主人に言った。彼が言うには、むかし村の若い男女が恋をした。だが、男の父親が二人の結婚を許さなかった。若き男女は、何としても夫婦になるべく、霊が宿ると信じられてきた野中の一本杉に、丑の刻のお百度参りをした。お参りの都度、杉の根元に小石を積んで。それでも親に許してもらえない二人は、手を取り合って急流渦巻く鯛生川に身を投げた。
「その時の若い男女の霊が杉の樹に乗り移ったんだそうです」
だから、この杉を切れば祟りがありますと、伍助が涙ながらに訴えると、逆に兵児左衛門の眉間が険しくなった。
「だから、おぬしはいつまでたっても一人前の大工になれんのじゃ。よいか、伍助。例え何百年の樹であろうが、このまま野中に立ってばかりでは役にたたんではないか、人間の役に立ってこそ、木に宿る若者の霊も慰められるというもんだ。早く伐れ!」
正蔵の手下は、仕方なく大きなノコギリで杉の根元から切り出した。
あまりの大木が故に、その日は日暮れまでに切り倒せなかった。翌朝、正蔵が庄屋の屋敷に飛んできた。
「確かに半分までは切り進みましたのに、今朝作業にかかろうとすると、ノコギリの跡形もありません」
兵児左衛門が現場に行ってみると、確かに野中の一本杉は、何事もなかったように天に向かって聳えていた。
天狗の松も欄間の材に
「頭を使え!」
今度も兵児左衛門の怒声が飛んだ。ノコギリで切った後に出る木屑を、片っ端から焼き捨てろというのだ。そうすれば、いかに生き延びようとする大樹でも、どうにもならないはず、というのが兵児左衛門の考えであった。
正蔵と手下が言われるままに木屑を焼き捨てると、樹は間もなく轟音とともに倒れた。
「あとで何が起こるか…」
心配顔の正蔵たちには目もくれず、兵児左衛門は次の目標物を探しに出かけた。やってきたのは雨宮(あめみや)という岩場。枝振りのよい松に見入った兵児左衛門は、「これを床の間と欄間の飾りに使う」と言い出した。
「旦那様、これだけはおやめください」
「なぜだ?」写真は、もう一つの筑後川水源
「ここには、時々天狗が現われて、修行していると年寄りから聞きました。そんなことをしたら天狗の仕返しが恐いですよ」
正蔵が頼んでも聞くような兵児左衛門ではない。とうとう、枝ぶり絶妙の老松も切り倒されて、大工の作業場に持ち去られてしまった。
神を恐れぬものに死の運命が
材木が揃えば、今度は大工の伍助の出番である。
「南無阿弥陀仏…」
伍助は、足元の老木たちに、祟りがないよう祈った後、切り込みにかかった。そしていよいよ棟上(むねあげ)というとき…。
「兵児左衛門はおるか」
なだれ込んできた10名ほどの役人に取り囲まれた兵児左衛門。荒縄で縛られて何処かへ連れ去られた。日田の代官の命で逮捕されたのである。兵児左衛門の罪状は、代官所への上納金を着服した大罪であった。お裁きを受けたあと、死罪に。代々続いた庄屋・中西家はこの時滅亡した。それも、厳しすぎる掟がなくなった明治維新を目前にしてのことであり、兵児左衛門が刑場の屑と消えた後、新築したばかりの豪邸は、火事にあい、あっという間に崩れ落ちてしまったという。
「よくよくあの庄屋さんは神や仏に呪われていなさったつばいね」とは、村人たちのひそひそ話しではある。(完)
庄屋屋敷は何処?
兵児左衛門の存在を示す何かが残っていないものかと、中津江村の中西地区を訪ねた。
「あのあたりと聞いていますが」
出会った農作業中のおじさんが足を止めて教えてくれた。杉山の中に見え隠れする段々畑のことらしい。
「そんな話しも、やがて誰も語らなくなるのでしょうね」
おじさんの独り言に、水を注すように再質問。
「ところで、中西村の庄屋さんの本当のお名前をご存じないですか?」
「……」
聞こえたのかどうかわからなかったが、しっつこくて嫌われても損だからと、それ以上訊かなかった。考えてみると、明治維新からまだ130年しかたっていない。仮名「兵児左衛門」の子孫が村中に住んでいたって不思議ではない。
「戦前のお国の旗振りで、ご覧のとおり山のてっぺんまでみんな杉を植えてしまいました。でも、今や杉はお金になりません。それより、雑木をなくした山では保水ができなくて、おいしくてきれいな水を、潤沢に下流の人たちに送れないのが申し訳なくて…」
「僕たちも子供の頃に、まるまる坊主の禿山は、いつでもみんなの笑いもの …もしもし杉の子起きなさいなんて唱歌を歌わされましたもんね」
と、今度は僕の独り言。
「戦後は減反、減反でしょう。お陰で田んぼは荒れ放題、若い者は村に住みつかなくなるし…。私の子供の頃には20戸あった家が、最近では5軒だけです」
おじさんの顔をまともに見るのも辛かった。
「最後にもう一つだけ聞かせてください。庄屋が老木を切り倒した滝の口と野中、それに天狗松があった雨宮とは、いったいどこです?」
これにはさすがのおじさんも困惑顔。
「つくり話でしょうから」と逃げられてしまった。
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