伝説紀行 西尾の六地蔵 みやき町(北茂安)
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僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。 |
佐賀県みやき町(北茂安)
話は変わるが、江戸時代まで筑後川は大きく蛇行して千栗八幡宮あたりが川岸であったという。そのせいか、久留米市は昔の川に沿って熱せられた焼餅のように膨らんでいた。長門石地区である。今は隣どうしの久留米市長門石町と北茂安町千栗・東尾・西尾などの地区は、大川を隔てて対峙していたわけだ。現存する小川・古川を、むかしの筑後川だと思えばわかりやすい。 産んだ子を生きたまま捨てた時代 菅原道真公が亡くなってすぐ、日本中に悪病が蔓延した。権力闘争に負けて都から遠い大宰府で死んだ道真公のたたりだと、権力者も庶民も一様に恐れおののいていた平安時代のこと。そんな筑後川の岸辺の西尾村に、清兵衛という大変心優しい男が住んでいた。清兵衛さんがいつものように大川に舟を出して投網で鮒や鰻を獲っていると、葦原に流れ着いた嬰児の死体を見つけた。 「またか」 清兵衛さんは、舌打ちをして彼方を睨みつけた。当時、この地方には毎年のように干ばつと大水が交互にやってきて、農民は生きていくのにあくせくしていた。若い夫婦にとって、日が暮れるとほかにやることはないし、子作りのための行為だけが仕事になってしまう。適当な避妊の方法を知らない民百姓は、2人3人までは生んで育てるが、それ以上は共倒れを防ぐために生まれたての赤ん坊を始末するようになった。手っ取り早いのが、そばを流れる大川に、生きたまま投げ入れることだった。残酷極まりない大人の勝手な行為である。清兵衛さんが引き上げた泥だらけの赤ん坊も、そんな大人の犠牲者であった。 「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」 清兵衛さんは、目から涙をぼろぼろ流しながら、まだ猿のように皺だらけの赤ん坊の体をきれいな水で洗ってやるが、怒りの気持ちをどこにもっていけばよいのか困っていた。(写真は作り変えられた6地蔵) 訳ありの親御を恨むでないよ これまでに清兵衛さんが拾い上げた嬰児の遺体は5体。彼は、裏の畑を墓地に変えて赤ん坊を懇ろに葬ってきた。「あの世には、お友達がたくさんいるから、楽しく遊べるよ」 「おまえを捨てたお父ちゃんやお母ちゃんも、おまえが憎くてやったんじゃない。恨まずに成仏しな。そのうちそちらでまた親子が仲良く暮らすときが来るから、それまで待っていてね」 まるで生きている子供に話しかけるように、清兵衛さんは墓標に向かった。もうこれ以上悲しい現実に出くわさないように、祈りながら今日も漁に出た清兵衛さん。大きな鰻がかかればいいが、と念じながら投網を広げた。網を引き上げるのも大変な重いものがかかった。悪い予感が的中して、やはり嬰児のの死体であった。 「困ったもんだ。これで6人目だ」 清兵衛さんは、まだ一匹も獲物がないのに、その日の漁を打ち切って赤子の埋葬にかかった。 これ以上子供を捨てる者がいなくなるにはどうしたらいいもんか、清兵衛さんは有り金を全部持って白壁の石屋に出かけた。水子地蔵を彫ってもらうためである。 「そんなことなら、わしも協力しよう」 石屋の大将が、無償で地蔵を作ってくれることになった。それも仏の数だけ6体。これが、西 尾の歯医者さんの脇に建てられている六地蔵の始まりである。 地藏さんが笑った 「地藏さんが笑った」清兵衛さんは、毎朝漁に出る前に六地蔵の一人一人に声をかけた。すると、そのうちの一体が微笑んだように見えた。一人が笑うと隣の地蔵さんの顔もほころんだ。それからは、清兵衛さんが赤子の死体を拾い上げることもなくなったそうな。 そんな清兵衛さんの行いを知って感動した人たちが、六地蔵にお参りするようになった。そのうちに、「あの地藏さんにお参りすると、子供の病気が治るそうな」「お参りした後は、うちの子供が夜泣きをしなくなった」「8歳になる子の寝小便が止まった」など、噂は噂を呼んで、西尾の六地蔵参りが後を絶たなくなった。 捨てられた6人の子供の遊び場にと、六地蔵の脇に誰かが植えた栴檀(せんだん)の苗木は、ずんずん大きくなって見上げるばかりの大木になった。そうなると、今度は木の皮をはいでいって、子供の寝床の下に敷くようになった。ご利益を求めてのことである。最近までその栴檀の木が聳えていたそうだが、今は枯れてなくなった。残念なことだ。完 |