伝説紀行 矢部のやん七どん  矢部村


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第131話 2003年11月02日版

2008.04.20
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

矢部のやん七どん

福岡県矢部村


矢部川源流の山々(矢部村田出尾) 

生まれて初めて山を下りる男

 明治のむかし、矢部の里に、やん七という生まれてこの方矢部の里から一歩も外に出たことがない純朴な男が住んでいた。住んでいる場所は押吟というところで、現在の日向神ダムができる以前の矢部川のほとりである。やん七どんは、雇われて山に入り、杉の木を伐採したり苗木を植えたり、下草を刈ったり、枝打ちをしたりする仕事で、山こそ彼の生き場所であった。毎日の食べ物といえば、自分で拓いた少しばかりの畑で採れるそばや野菜、それに山の中にはいくらでもある茸(きのこ)などである。また、矢部川の清流には、季節ごとに鮎(あゆ)や川蟹(かわがに)などつかみ取りできるほど泳いでいる。というより、やん七どんにとって食い物といえば、それ以外は世の中に存在しないものと思い込んでいる節があった。
 やん七どんは25歳になって、かわいいお嫁さんを貰った。お嫁さんは矢部川を下った柳川からやってきた。嫁さんから、大きな川や海の話を聞かされても、どんなものやら想像すらできない。ましてや、有明海で採れる魚介類のことなど、チンプンカンプンである。
「一度、おまえの実家(さと)に挨拶に行かにゃならんな。祝言のときは、お父さんやお母さんや親類のおっちゃんたちに、大勢こげん遠かとこまで来てもろうたこつじゃし」
「そうかんも、あたしゃあ、うれしか」
 お嫁さんは柳川弁丸出しで夫の柳川行きに感謝した。でも、彼女が案内するというわけにはいかない。というのも、結婚初夜早々励んだお陰で、お腹には5ヶ月の子供を抱えているからだ。暦の上で縁起のよい日を選び、やん七どんが一人で柳川まで出かけることになった。

イシでつくったドウロって?

 前にも述べたとおり、やん七どんは矢部の里から一度も外に出たことがない山男である。やん七どんは夜が明ける前に家を出て、矢部川沿いを下っていった。黒木の町まで来たら、道端まで張り出した藤の花が真っ盛り。藤棚の下をウロウロしていると、姉さん冠りの女将さんに止められた。
「いえ、おどんな、こん藤の根がどこじゃか、探しよっと」
「何ば言よらすとじゃか、こん人は。根は向こうん方にいっちょ(一つ)だけで、こげん枝ば張っとると」
 しばらく見事な藤の花に見とれたあと、遅くなっては大変と大股で柳川を目指した。途中小屋にべた座りして大きな石と格闘している人を見つけた。
「何ばしよんなさっとですか?」とやん七どんが尋ねた。
「見りゃわかろうもん。石灯籠(イシドウロ)たい」
「ふーん、そげな石ば、どげんして道に並ぶると?」
「はあ?」
 男が首を傾げた。
「ばってん、あんたさんな、今言わしゃったじゃんの。石で道路ば作よるち」
 さすがの石工も、こんなのんびりした、場違いの人間とは付き合いきれないと、小便に行くふりをして家の中に消えた。
 賑やかな通りに出た。福島(現八女市)の街である。
「あんたさん、ずうっと仏さんば拝みよなさるばってん、死になさってから極楽に行かるっですよ」
 やん七どんが、仏壇の前で手を合わせている人に話しかけた。
「早う、向こうに行かんか! 俺はこれが商売たい。成仏てんなんてんすうぐつなか」
「そりが商売ですか? あんたさんは、仏壇の前で手を合わすっとが」
「馬鹿なこつば言うもんじゃなか。仏壇の飾りを作るのに、錐(きり)もみしばしよったつたい。あんたのごたる暇人と付き合うてる暇はなか」
 これ以上いたら、鋭くとがった錐で突き刺されかねない職人の怒りようであった。
 またしばらく歩くと、一度に花が咲いたように庭いっぱいに傘が広げてある。
「お宅さんには、百人も家族がおらるるとですか?」
 傘の数を凡そ数えたのち、孫の守りをしているお婆さんに訊いた。
「馬鹿んごたるこつば訊くもんじゃなか。うちは傘屋たい」
 またまた、大失敗。急ぎ退散するやん七どんを、三つか四つになる幼子が、指差しながらゲラゲラ笑った。

三本柱のお宮さんって?

 再び矢部川の土手に出た。矢部の里と比べてずいぶん川幅が広くなったもんだ。本郷(現みやま市本郷)から、矢部川が二股に分かれている。南に向かうのが本流の矢部川、西へ行くのが沖端川(おきのはたがわ)である。嫁さんに教わったとおり沖端川の土手沿いに歩いていると、やがて大きなお宮さんの前に出た。
 そのお宮さんに誰を祭ってあるのかお嫁さんに聞いていなかったから、歩いている粋な若衆に尋ねた。
「三柱神社(みはしらじんじゃ)ち、言うばんも」
「へえ、そうですか」、感心しながら、やん七どんは本殿の周りをキョロキョロしながら何度も回った。
「あんたさん、何ばしよらすかんも?」
 今度は、参道で飴玉を売っている爺さんに声をかけられた。
「さっき、若い人にここは三柱神社ち聞きましたばってん、どげん数えたっちゃ、柱は十本以上あるとですよ」
 飴玉売りの爺さんがやん七どんの言うことを理解するまでにかなりの時間を要した。
「あんたさん、そげなこつも知らんたいね。こんお宮さんには、むかし柳川のお国ばつくりなさった戸次道雪という人と、関が原合戦のあとで柳川のお城の殿さんになりなさった立花宗茂というお方、それに宗茂の殿さんの奥さんであられる方の3人が祭られていなさると、わかったかんも?」
 わかったようなわからないような、そんな顔をしてやん七どんは三柱神社をあとにした。

兵児はずして食う二枚貝

 賑やかなこと。お城の街とは、こんなに人が多いものか。歩く両側には食べ物やら着るものやら、はたまた毎日家で使う道具などを売る店が果てしなく続いている。
「ひょっとして、あんたさんは矢部から来なさったやん七さんでは?」
 声をかけられてびっくり。実はお嫁さんから実家のほうに連絡がいっていて、途中まで迎えに来た、兄嫁の正子さんだった。
 正子さんの案内で、初めて嫁さんの実家の敷居を跨いだ。家のすぐ横を流れているのが沖端川で、すぐ向こうはもう海だと、祝言で矢部の里まで来てくれた嫁さんのお父さんが教えてくれた。その夜は、親戚一同20人も集まって、やん七どんの大歓迎会が。それぞれの家から女子衆が来て、台所で料理に励んでいる。
「親類のおかっつあん(奥さん)たちがかせ(加勢)しちくるるけん、たすかりますばんも」
 お嫁さんのお母さんが皆さんに挨拶している。
「何もなかばってん、有明ん魚ならいくらでんあるけん、腹ん破るるごつ食べてつかわさい」写真は、柳川沖ノ端
 お父さんがやん七どんの隣に座って、並べられた魚の名前と食べ方を教授した。
「こん、平べったか魚はくつぞこ、箸のようにひょろ長かつはしゃみせん貝、青光りしとる貝がメカジャ、それにむつごろう、蛇のごつ気味の悪かつはわらすぼちいいますばんた」
 食べるより、見て聞いて楽しむのが有明海の魚のようである。
「ん、この貝はどげんして食べると?」
「そりゃ、アゲマキちいう貝ばんた。まず、兵児(へこ=ふんどし)ばはずして、そればお膳の上に置いて食べてつかわさい」

カヤのノレンって?

 所変われば、食べ方もいろいろあるもんだ。「郷に入れば郷に従えですもんね」
 やん七どんは、少し恥ずかしかったが、ここは嫁さんの顔を汚してはならないと、やおら立ち上がった。着物を脱ぎ、最後の褌まではずして、それをお膳の上に置くと、山で鍛えた一物が勢いよく揺れた。
「なるほど、体の下のほうが涼しかと、貝もうまかですね」
「キャーッ」と、お世話をしている女性たちからいっせいに悲鳴が。
「婿どん、あんたさん、何ばそげん恥ずかしかこつばせらすとですか」
 隣のお父さんも、顔を真っ赤にし、慌ててやん七どんの大事なところを座布団で隠した。
「そげん言われても、お父さんが兵児ばはずして膳の上に置けち…」
「違う違う。あたいが言ったつは、アゲマキの身についとる紐のごたる長かやつ、そりば柳川ではヘコちいうとたい。そればはずして食べなっせち、言うたつたい。あんたさんが締めとる兵児とうは違うが」
「こりゃたまらん」
 やん七どんは、恥ずかしさでとうとう座敷から逃げ出してしまった。夜も更けて、お休みの時間がやってきた。昨日嫁さんから、「柳川では入り口に暖簾(のれん)というものが下げてありますもんの。また夏は蚊が多かけん、蚊帳(かや)がつってありますもん。まず暖簾ば潜って、その次に蚊帳ば潜って寝るとですよ」と教えられてきた。
 寝間には確かに蚊帳が吊ってある。
「ははーん、こりがのれんちいうカヤばいね」
 やん七どんは、蚊帳の裾を持ち上げて中に入ると、その向こうにもまた蚊帳が。
「ははーん、これが暖簾ちいう蚊帳ばいね」
 そこで、また蚊帳の裾を持ち上げて外に出て眠った。いやいや、翌朝のやん七どんの体は、蚊に食われっぱなしで丸膨れ。

赤くて長くてつるつるしている食べ物って?

 いよいよ、嫁さんの実家にもお暇(いとま)をして家路につくべく沖端の街に出た。そこで矢部の里で待つ愛妻へのお土産を買うことにした。
「昨夜よばれた、赤おて長かつがうまかったけん、それにしよう」
 やん七どんは、生まれて初めて海を見て、海の魚を食べて、おいしかった赤くて長いもの(実はそれは車えびのこと)を土産に買って、意気揚々と矢部の里に帰ってきた。
「おい、うまかみやげば買うてきたぞ」写真:有明海の珍味
 やん七どんが差し出した物を見て、お腹の大きな嫁さんがひっくり返りそうに驚いた。
「何の、こりゃ? 赤っかろうそくばんた。いくらなんでん、わたしはこげん長うして、ツルツルして、ピカピカ光るもんは口に入れきらん」

「やん七どん」とは、矢部地方では有名な伝説上の人物だそうな。そこで、柳川を代表する明治の詩人・北原白秋も、次のような歌を残しているそうな。
「矢部のヤン七さんな  馬から来たが  五島の権十どんな 帆で逃げた」

 矢部村に行ってみるとわかることだが、行けども行けども杉を植えた山ばかり。働いているおじさんたちも、皆さん柔らかい表情で会釈してくれる。やん七どんは、村中どこにでもおいでなさるばんた。

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