伝説紀行 野狐の御前迎え  みやき町(北茂安)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第130話 2003年10月26日版
再編:2017年12月24日
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。
ヤコ(野狐)の御前迎え

佐賀県みやき町(北茂安)


北茂安町西寄地区

 昭和30年代までは、筑後川を挟んで右岸の佐賀県(肥前)と左岸の福岡県(筑後)では、言葉も慣習も違っていた。
「そんな大袈裟なあ」と、今の若い人は疑うかもしれない。確かに最近では、肥前と筑後の文化の境目がわからなくなった。みーんな、テレビに出てくる標準語?に右へならいしているからだ。
 そこで今回は、他国の人にはわかりにくい「佐賀圏の標準語」を駆使して、面白話を一席申し述べることにしよう。かく言う筆者は根っからの「福岡・筑後の人」。ずいぶんむかしに川向うの肥前国に嫁いだ妹の,舅さんと姑さんの掛け合い漫才的な会話の記憶が頼りのなのだから、これまた頼りないことはなはだしい。

共同混浴風呂でヤコの噂

 いまから100年前、時代は明治の初めの頃。秋も深まって収獲を終えて、農民たちが一息つく頃。筑後川のそばの江口村に住む惣吉は、寒水川(しょうずがわ)を遡ったところの西尾上地(にしおあげち)にいる妹の息子の結婚式に呼ばれた。紋付袴で身を包み、まるで役者のようななりで出かけた。 空は快晴、西寄(にしより)地区のそば畑上空では雲雀(ひばり)がピーチクパーチクうるさいこと。
 結婚式では惣吉どん、請われもしないのに、「高砂」を唸った。
「上手ですなた。そいぎぃ、江口の兄さんはおうたばどこで習いんしゃったと?」
上手ですね。それで、あなたはその謡曲をどこで習ったのですか。
 参列者から大きな拍手を貰って、惣吉どんは有頂天。
「風呂んでん入っていかんね」
風呂にでも入っていきなさいよ。
 妹に言われて、参列者と一緒に上地の男女混浴の共同風呂に出向いた。
「ここんとこ、寺山んにきじゃヤコがよう出るげなばい」
最近、寺山のあたりでは野狐がよく出るそうです。
と、誰かが話を切り出した。そうなると、「俺も見た」「あたいも」と騒がしくなる。
「寒水川ん土手ん方で、がんあっか提灯の灯がめっかった。がん夜更けにどげんしたこっちゃかちみよったら、提灯の灯りががん並んで二つになったもんなた。もうちょっとしよっと、提灯は三つになり、四つになり…」

寒水川の土手の向こうの方に、このくらい明るい提灯の灯が見えたんです。こんな夜更けにどうしたことかと不思議に思って見ていたら、提灯の灯りは二つになり三つに増えました・・・
「ふん、ふん」
 興味津々(きょうみしんしん)、皆はその人のそばに擦り寄ってきた。
「ちょっとみんうち、おばしゃんのおっぱいはしょぼくれてしもうたなた」
しばらくみないうちに、おばさんのおっぱいは小さくなってしまいましたね。
と、茶々を入れるものあり。
「そげな馬鹿んごおたるこつば言うもんじゃなか。黙ってこん人のヤコの話ばきかんね」
そんな馬鹿げたことを言ったらいけません。黙ってこの方の野狐の話を聞きましょうよ。
 おばさんが怒って風呂の湯を刎ね上げた。

突然目の前に白い海

「そうしよったら、提灯は、おおかたじゅうぐれいになったっさ。提灯な一列に並んで、ユラあユラあ揺れる灯が、そりゃあきれいじゃったもんなた。そのうち、灯りの行列が前に出たり、後ろに下がったり、パッとのうなったり、またついたり…」
そうしているうちに、提灯の灯りは10個くらいになりました。ユラユラ揺れる明かりがきれいだったこと。灯りは前に出たり後ろに下がったり…。
「おりも見たかったな、そげんきれいかもんなら」
俺も見たかったな、そんなにきれいなものなら。
「そげなもんじゃなかばい。だーれんおらん暗かとこじゃけん、気色の悪かつたい」
そんなにいいものでもありませんよ。誰もいない暗闇だったら気味が悪くて。
「それは、ヤコの御前迎えちゅうとたい」
 それまで黙って聞いていた80歳にもなりそうなお爺さんが解説を加えた。外はすっかり暗くなり、東の山から十五夜の月が昇り始めた。
「今夜は泊まっていかんね」と、妹にせがまれたが、恋女房のサトさんやかわいい盛りの子供たちが家で待っている。お爺さんの「ヤコの御前向かえ」が頭から離れないまま惣吉どん、半分千鳥足で妹の家を出て西寄のあたりにさしかかった。するとどうしたことか、前方の田んぼが大水で海のように白い波を打っている。
 引返せば妹に馬鹿にされそうで、水の中を家路につくことにした。紋付も袴も脱いで帯で結び、頭に乗せて褌一つの姿になると、恐る恐る水の中を歩いた。

裸で帰った父ちゃん

 やっと江口の家にたどりついた惣吉どん。
「ひどか目におうたたい。どこでんここでん大水に浸かってしもうて」
 父の独り言を聞きつけて子供たちが出てきたが、ポカンと口をあけているだけ。
「体んじゅっくいなっとっけん、うんだん、はよ浴衣ばもっちこんか」
体がびしょ濡れだから、着替えを早く持ってこい。
 惣吉どんの怒声で、女房のサトさんが慌てて裏庭から駆けこんできた。
「こぎゃんさんか(寒い)とこれ、にゃあごつかい? まっぱだきゃなって、風邪でんひいたらどげんすんね」
こんなに寒いのに、どうしたのですか? 丸裸になって、風邪でもひいたらどうしますか。
 サトさんも子供たちも、まったく親父に同情している風がない。


一面そば畑風景

「わさんにゃ(おまえには)雨の降よったつがわからんじゃったつか? ちょっと前まで大雨の降るいよったろもん。そいぎぃ、帰ってきよったぎにゃ、紋付が濡れんごつ裸になったつが、いかんとか?」
おまえたちは雨が降っていたのに気がつかなかったのか。だから、帰り道紋付が濡れないように裸になったのが、悪いことか。
「おかしかにゃ、大水てんなんてん。あんた、どうかしとるばい。外を見てみんさい。朝から雲いっちょんなかよか天気たい。何が大水ね」
おかしなことを言いますね、大水とか何とか。あなた頭がどうかしていますよ。家の外を見てください。朝から雲ひとつないよい天気じゃありませんか。何が大水ですか。
 サトさんに言われて、やおら外に出た惣吉どん。空を見上げたら、まん丸の十五夜の月が45度まで上がっていた。
「そがん言うたっちゃ、おいは確かにこん目で田んぼが水ん中にへえってしもうて、真っ白じゃったつば見たつたい」
そんなに言っても、俺は確かにこの目で田んぼが水に浸かって真っ白になっているのを見たんだ。
「ヤコに騙されたつよ、あんたは」
キツネに騙されたのですよ、あなたは。
「何ば言よるか、おいはヤコに騙されるごつもうろくしとらん」
何を言うか、俺は野狐に騙されるように耄碌していないよ。
「そぎん言うなら、行たてみまっしょか。あんたが大水に遭うた西寄に。着いてきんさい」

十五夜の月にそば畑が照らされて

 大またで夫婦が歩くと、そばの溝の蛙が頬っぺた膨らまして、「ギャッポ、ギャッポ」と鳴き出した。惣吉どんをあざ笑ってように。
「どこに大水が出とるね?」
 サトさんが、大げさに両手を広げて亭主に訊いた。
「おかしかにゃ、さいぜんまで、どこでんここでん海のごたる水ばっきゃあで、真っ白か波がたっとったつに」
おかしいな、先ほどまで、一面海のように水ばかりで、真っ白い波がたっていたのに。
 しきりに惣吉どんが首をひねっている。
「それっさい、目ん前のそば畑の白か花が白か海に見えたつたい」
それはね、目の前のそば畑の白い花が白い海に見えたんですよ。
「ばってん、俺はそげん酔っ払ってはおらんじゃったぞ」
「ヤコの御前迎えんこつばっかりかんげよったけん、あんた、ヤコにきゃあくり騙されなさったつですたい」
野狐のことばかり考えていたものだから、本当に野狐に騙されたんですよ。
 なるほど、真っ白のそば畑が海に見えるようにキツネが仕掛けたのか。惣吉どんは、わかったようなわからないような、そんな顔をして、サトさんの後ろを小さくなってついて帰った。(完)

 筑後川の右岸は水田ばかりである。その水田の中を、縦横に大きな自動車道路が走っている。何のために? 田んぼの中に高い金をかけて車道を造るのかわからない。かく言う筆者もヤコの餌食になったのかな。

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