伝説紀行 弥永の夜泣き松  筑前町(三輪)


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作:古賀 勝

第129話 2003年10月19日版

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 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢(とし)居所(いばしょ)なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしばだ。だから、この仕事をやめられない。


幽霊からの預かりもの
弥永の夜泣き松


07.04.22 08.10.12 09.01.11

福岡県筑前町(三輪町) 

 
弥永の一里塚跡

 秋月城址から旧三輪町(現筑前町)に向かって4キロほどすすんだところに、「弥永(いやなが)の一里塚」と(しる)された案内板が立っている。江戸時代の旅の道標(みちしるべ)として1里ごとに松の木が植えられていた名残りなのだが、昭和40(1965)になって松は枯れてしまった。土地の人は、「夜泣き松」と呼んで親しんできたのだが。
 夜泣き松の場所はといえば、「おんが様」で親しまれる大己貴神社(おおなむちじんじゃ)の門前である。

美しい女が飴玉買いに

 江戸時代の中期、師走に入って目配山(めくばりやま)からビューッ、ビューッと吹き降ろす北風で、表通りは埃が宙を舞って目も開けていられない。夜が更けても風は衰えず、駄菓子屋の伝兵衛は布団に包まって震えていた。写真は、かつての弥永の一本松(三輪町史より)
「明日は初雪ばいね、婆さん」
「これじゃ、客も寄り付きまっせんね、爺さん」
 夫婦の会話も寒さで途切れがち。その時、誰かが表戸を叩く音がする。最初は風の悪戯だと放っていたが、そうでもなさそうだ。
「誰じゃな、今頃。店はとっくに閉めたで」
 伝兵衛が戸の内側から声をかけたが、ドンドン叩く音はやまない。しぶしぶ表戸を開けると、そこに女が一人立っていた。粗末な着物一枚を着ているだけの女は、主人の伝兵衛を見て、かすかに笑みを浮かべた。
「申し訳ありませんが、飴玉を三つ分けてくれませんか」
 女は蚊の鳴くような声で用件を伝えた。
「言ったろう、もうとっくに店じまいだって」
「でも…、赤ん坊が泣き止まないもので…。後生ですから、飴玉を三つください」
 このままだといつまでも帰りそうになく、「表は寒かろう」からと、中に入れて行灯(あんどん)に灯をともした。改めて女の顔を見た伝兵衛が、思わず息を呑んだ。目の前の女、歳のころなら25歳くらいだろうか、錦絵から抜け出てきたようにすらっと背が伸びていて、顔の色はぬけるように白く、目鼻の形が整っていて大変な美人だ。うっとり見とれている伝兵衛に、女は「飴玉を三つください」を繰り返した。部屋の婆さんの様子をうかがうと、コックリ居眠り中。
「お代はいらんから、持っていきなさい」
 伝兵衛は、紙袋に飴玉10個と赤ん坊が好きそうなお菓子を入れて渡した。その時触れた女の手は、氷のように冷たかった。
「寒かったんだろう」
 伝兵衛は一人納得して、女を送り出した。

松の根元に赤ん坊が

 だが、妙に伝兵衛の気持ちが昂ぶっている。堪えきれずに、女の跡をつけた。女は、下駄の音を鳴らしながら北に向かった。月夜のせいで、その後姿がなまめかしくて、夢中で追った。
 おがん様(大己貴神社)の大鳥居を過ぎて一里塚の一本松まで来たとき、伝兵衛は女の姿を見失った。未練がましく、あたりをキョロキョロしていると、突然足元から赤ん坊の泣き声が。泣き声はだんだん音量を増して、伝兵衛も放って置けなくなった。月明かりに照らしてよく見ると、綿入りのねんねこに包まった生後7、8ヶ月ほどの赤ん坊が寝かされていた。写真は、大己貴神社
「かわいそうに、寒かろう」
 伝兵衛が赤ん坊を抱き上げてあやすと、それまで泣き叫んでいたものがぴたりとやんで、人なつっこく笑った。それがまたかわいいこと。
「いい子だ、いい子だ。お母ちゃんはどこに行ったんかの」
 背中に寒気を感じて振り向くと、一本松の陰から先ほどの女が現われた。女は紙包みの中から飴玉を取り出して、赤ん坊に頬張らせた。赤ん坊は夢中になって飴玉をなめた。
「あんたの子供かい、この赤ん坊は?」
 伝兵衛が赤ん坊を渡しながら尋ねると、女はこっくり頷いた。

勘当された娘が子を持った

 これ以上関わったらろくなことにならない、そう思った伝兵衛は、踵を返して帰ろうとした。
「帰らないでください。お願いですから私の話を聞いてください」
 仕方なく、伝兵衛は再び赤ん坊を抱いた女と向き合った。
「私はみよと申します。いったんはこの世におさらばしたものの、成仏できずに彷徨(さまよ)っているものでございます」
「あんたは、幽霊なんかい?」
「半年前にこの子を産み落としましたが、大変な難産で、私はそのまま息を引き取りました。ですが、生まれてきた子供は元気で、私の遺体にすがるようにして泣き叫ぶのです。ですから、私は死ぬに死にきれず、あちこちで貰い乳をしたりして育ててまいりました。おじさんの飴玉は、お乳の代わりなのです」
「身内もおろうに。どうしてあんただけがそんなに苦労しなければならないんだ」写真:大己貴神社の門前
 そこで、幽霊のおみよが話すには…。
 彼女は、秋月の城下では知らないものがいない材木問屋の一人娘であった。成長して娘盛りを迎えると、依井(現三輪町大字依井)の農家の(せがれ)勘助と恋に落ちた。家柄が違いすぎると反対する父親は、勘助の親父に金をつかませて、強引に二人の仲を引き裂いた。愛する男も、親の言いつけには逆らえず、甘木の農家の娘と祝言を挙げてしまった。
 そんな冷たい男のことは早く諦めなければ、と思っている矢先、おみよの体が変調を起こした。妊娠である。娘の懐妊を知った父親は怒って、その日のうちにいくばくかの銭をもたせて家からたたき出してしまったのであった。

難産で母が死に子は生きた

 おみよは親から貰った金で粗末な家を借り、出産に備えた。月も満ちて、身寄りとていない部屋で難産の末に子供を産んだ。
「そこまでは、覚えているんです。でも、息苦しくなって現世におさらばしたという訳でございます」
「そんなのって、ないんじゃないか。だって、いくらつれない男といっても、自分の子を宿している恋人と別れて、簡単に外の女と結婚できるもんかね?」
「違うんです」
「何が?」
「勘助さんは、私が身篭ったことを知らないのです。私からも知らせませんでした。あの方の幸せのために」
「どこまで人がいいんだろうね、あんたっていう人は…。それで、俺に願いとは?」
「実家の父親が許してくれるまでこの子を預かってくれませんか。いくら頑固な父でも、そのうちに孫と暮らしたくなるはずです。そうしなければ、私はいつまでも、現世とあの世の間を彷徨い続けなければなりません」
 さて、どうしたらいいものか、伝兵衛が思案している間に、幽霊のおみよは消えて、赤ん坊が伝兵衛の腕の中で寝息を立てていた。

赤ん坊の将来は…

 この話は、あっという間に弥永の村中を駆け巡った。「一里塚の一本松に幽霊が出るげな」「松の木のあたりで聴こえた泣き声は幽霊の子供だったのか」と。誰言うとなく、この松のことを「弥永の夜泣き松」と呼ぶようになった。
 伝兵衛夫婦が預かった赤ん坊を、その後秋月の材木問屋に届けたかどうか、伝承が途切れていてわからない。幽霊の噂も通り過ぎて、一本松から赤ん坊の泣き声が聴こえなくなったのは、丁度、伝兵衛がおみよの幽霊から赤ん坊を預かった夜からだった。このことは、偶然とも思えないのだが…。
 それから20年経過して、一人娘を亡くして血筋が絶えたはずの材木問屋で、凛々しい跡継ぎが働いていた。店はますます繁盛したというから、ほっと胸をなでおろしたい気持になる。(完)

 弥永地区を訪ねたのは、秋の大祭の直後だった。まず大己貴神社にお参りして、むかしの門前町を散策することにした。神社の主祭神は大国主命、つまり大黒さんである。「奈良で見るような立派なお宮さんね」とは連れ合いの呟き。約1キロに及ぶ家並みが、むかし店が立ち並ぶ門前町だったとは想像できない。でも、神社裏手の弥永城址や寺などの配置、数々の遺跡出土からみると、やはりそうだったのだろう。一里塚跡の竹薮の脇を流れる草場川は、稲刈りが終わって水田の需要がなくなり、青空のもと静かであった。
 さて【弥永】と書いて「いやなが」と読むのはどうしてか。実は、大己貴神社から4キロ南方に「屋永」と呼ぶ集落がある。そこで昔の人の知恵で、「弥永」の方の呼び名を変えたのだと。(03年10月19日)

 1年ぶりに、大黒さんでお馴染みのおんがさん(大己貴神社)を訪れた。お正月のせいもあって、次々に参拝客が神前で頭をたれている。こちらも負けじと、七重の腰を八重に折って願いごとをした。でもやっぱり神さまは不機嫌だ。「何とか宝くじがあたりますように」と身勝手なことばかりでは、さもあらん。
 肝心の一本松に、松の苗木が植えられているのに驚いた。まさか、伝説紀行の反響を知った地元の方々が、急遽仕立てたわけでもあるまいに。上の写真のように、この松が見上げるほどに成長するのを見守るばかりだ。(09年1月5日)

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