伝説紀行 猿を呼ぶ寺   聞信寺 広川町


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第128話 2003年10月12日版

2008.04.13 2018.12.26
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 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。
猿を呼ぶ寺

福岡県広川町


聞信寺

 国道3号の川瀬交差点(八女郡広川町川瀬)を広川沿いに東上していくと、県道脇に浄土真宗の呼猿山聞信寺(こえんざんもんしんじ)というお寺が建っている。このあたり大字名を水原というが、明治9年前までは上妻郡甘木村だった。聞信寺の開基は、室町時代の大永元(1521)年というから、立派な古刹である。
 山号の「呼猿山」が気になって、ある秋晴れの午後お訪ねした。応対してくれたのは、前の住職で開基の祖から数えて14代目に当たる隆慶さん。大病を経験なさったとかで、足は少し不自由のようだったが、はっきりとした口調で、寺に伝わる話を誇らしげに語ってくれた。
 

子を孕む猿を殺す

 ときは、内戦に明け暮れた南北朝時代がようやく終わりを告げる頃。十三河原(広川上流の地名)から見上げる赤藪山(485b)の山中で、主従らしい髭面の男2人が弓矢を担いで獲物を追っていた。


前住職隆慶さん

「ガサッガサッ」と熊笹を払う音がして振り向くと、1匹の大きな猿が親しげな目つきでこちらを眺めている。
「獲物だ!」
 主人らしい男が叫んで、弓に矢を番えた。 その時、目の前の猿は怯えたような表情に変わり、自分の大きなお腹を突き出して両手でさすった。
「お待ちください、お殿さま。あれはお腹に子を孕んだ雌猿です。無益な殺生はお止めください」
 お殿さまと呼ばれた男の後ろについていた男が、主人の前に立ちはだかった。
「なにを臆病な。余らにとって猿といえども獲物には違いはあるまい。獲物がなくば、生きてはいけぬのだ。ここを戦場と思え。目の前に現れしものすべてが敵なるぞ」
 男は、弦を満月ほどに絞って矢を放った。目の前の猿は、「ギャッ」と一声発したあと、恨めしそうに男たちを睨んで息絶えた。

九州平定で河内から九州へ

 訳ありげな2人の男。首領らしい武者風の髭面は、河内国からやってきた狭山(さやま)城主の野中八郎善晴(よしはる)であり、八郎の後にいるのがかつて小姓を勤めていた大森孫右衛門であった。城主の八郎は、室町幕府の命で菊池武朝勢を撃つべく、500人の兵を率いてはるばる九州にやってきたのだった。時に応永3(1396)年2月のこと。博多の港に上陸したあと、一行は長者が原(福岡市博多区雑餉隈)の草原で菊池軍の待ち伏せにあい、瞬く間に兵の半分を失うことになった。要は野中軍の準備不足と地理不案内を衝かれた形であった。
 野中軍は敗走に敗走を重ねた。大宰府の竈神社(かまどじんじゃ)まで逃れてきたとき、兵の数わずか数十人にまで減っていた。しかも頼りにする武将たちはことごとく戦死している。
「武運味方せず、我らもこれまでぞ。おのおの方潔


写真:広川上流

く果てよう」 野中八郎が短剣を抜いて自腹に突きたてようとしたその時、押しとどめたのが唯一生き残っている侍大将の樋口陶之進であった。
「死ぬのはいつでもできまする。生きてもう一度再興を期しましょうぞ。多勢では敵の目に触れやすく、殿は大森孫右衛門だけを供にして山中にお逃げくだされ。我らは河内に戻るものとあとから殿を追うものに手分けして参ります」

敗残の将 甘木の里へ

 野中八郎善晴と孫右衛門は、身を百姓の(なり)に変えて、宝満山から筑紫平野に出ると、大川(筑後川)を渡り、高良山の山中から尾根伝いに南へ進んでいった。
「あそこに灯が見えまする。今夜の宿を頼んで参りましょう」
 孫右衛門は暗がりに八郎を隠すと、大きな屋敷に入っていった。しばらくして、主らしい男が孫右衛門と一緒に出てきて八郎を屋敷に招き入れた。
「ここは、筑後国の甘木村(現八女郡広川町水原)です。私は村の名主をいたしております善兵衛と申します。河内からはるばるお殿さまがこのような田舎においでになるのも何かの縁でございましょう」
 善兵衛は、屋敷内の灯りをすべて消して主従を匿った。翌朝早く、善兵衛が先導して更に川を上り、十三河原に建つ小屋へ案内した。
「いかに菊池兵でも、ここまでは追ってまいりますまい。隠れ家にしてくだされ。食い物や猟に必要なものは後で届けさせますゆえ」
 そう言い残して善兵衛は屋敷に戻っていった。

隠れ家で原因知れずの大病に

 野中八郎善晴が、子を孕んだ雌猿を射殺したのは、十三河原の小屋に隠れて10日もたった頃だった。八郎と孫右衛門は、名主の善兵衛が用意した弓矢などで兎や雉を捕まえ、それを家人が引き取っていき、米など穀物や暮らしに必要なものと引き換えて届けることになっている。彼らにとって、その日の収獲は生きていくための最低限の手段だったのである。
「戦地にあれば、人の肉でも食わなければならない」とは、孫右衛門もかつて親に聞かされたことである。だが、子をかばうように両手で腹を押さえている猿の死骸を見て、泣き出してしまった。さすがに気がとがめたのか、八郎は死んだ猿を獲物として持ち帰ろうとは言わなかった。
 その晩のこと、突然八郎善晴が腹を押さえてうめきだした。食い物はすべて吐き出し、熱はうなぎのぼりに。「河内へ帰ろうぞ」、「奥を呼べ」などとうわ言が出始めて、発狂寸前であった。孫右衛門は甘木の善兵衛屋敷に走り、里の薬師(くすし)を連れて戻ってきが、薬師も匙を投げて山を下りてしまう始末。


写真は、野中姓が占める墓所の石碑群

「これはきっと、孕んだ雌猿を殺した祟りであろう」
 孫右衛門は、昨日猿を殺した赤藪山に出向いた。幸い猿の死骸は、カラスなどの餌食になることもなく横たわっていた。近くの小川で死骸を清め、眺めのよい場所に穴を掘って懇ろに葬った。それでも八郎善晴の様態は好転しない。好転どころか、体は痩せ細っていくばかりであった。

猿を呼び、仏の使いが掛け軸を

 孫右衛門は再び赤藪山の頂上に登り、真っ青な空に向かって声を張り上げた。
「殿さまが殺めた猿殿、どうかお許しあれ。我が身を差し出しますゆえ、殿さまのお命をお救いあれ」
 その時、西の空から紫雲に乗った白髪の老人が現れた。脇には先日八郎善晴が殺した猿が、かわいい赤ん坊を抱いて控えている。
「下々の手本となるべき大名が、この世に生を受けようとする命までも絶った罪は重いが、汝の忠義に免じて主を助けてくれよう。これから授ける一巻の軸を拝めば、病は癒えるであろう」
 孫右衛門の夢は覚めた。枕元に1巻の掛け軸が。紐解くとそこには南無阿弥陀仏の6文字が。孫六は、その軸を壁にかけ、一心不乱に名号を唱えた。
「頼もう」
 その時、表戸を激しく叩くものがいる。さては敵の追手に悟られたか、と覚悟して節穴から表を見れば、そこに侍大将の樋口陶之進が家来の金子高九郎を従えて立っていた。地獄に仏を得た気分で陶之進らを迎え入れると、孫右衛門はこれまでのことを話した。
「よくぞ殿を守ってくれた、礼を言うぞ。我らも、仏からいただいた軸を拝まなければ・・・」
 樋口と金子、それに大森孫右衛門の「南無阿弥陀仏」の大合唱が、昼夜たがわず続いた。そして7日目の朝、八郎善晴の熱が下がり、目を覚ました。主従は涙涙の対面を果たした。

武士よさらば

 野中八郎善晴は、その日のうちに髪を剃り落とし、名も善了と改めた。陶之進ほか3人も、仏に仕える道を選ぶことになり、隠れ家のそばに庵を結んだ。庵の名は呼猿山聞信寺。殺めた雌猿の供養を念頭につけた山号・寺号であった。以後、主従は山を拓き、野を耕して穀物や野菜を育て、死ぬまで生類を口にしなかったという。
 この話を聞いて、近隣の人々も壁の名号を有り難く拝むようになった。拝めば熱病が治ると信じられるようになったのは、後の世になってからである。(完)

「せっかくおいでいただきましたが、先祖から引き継いでいる名号の掛け軸は、京都に修復に出していてお見せすることができません。それは立派な書です。先祖の野中八郎善晴の墓は、すぐ近くに保存されています。この地区では、今も野中の姓が多いですよ。この方々30軒は、毎年持ちまわり幹事で先祖祭をやって、血筋を確かめ合っています」とは、隆慶さんのお話。
 八郎善晴の墓は、聞信寺から歩いてすぐの高台にあった。なるほど刻まれた世話役16人の姓はすべて「野中」であった。

現地からのお便り

私は27年前に結婚をしましたが、3人の子供の初宮参りは、主人の実家である広川町水原でした。
後々わかった事ですが、このお話にでてくる野中八郎善晴氏は主人のご先祖さまだったのです。
身ごもった猿をめがけて善晴が弓を引いてしまった事、殿という立場があり後に引けなかったのか?分かりませんが大変悲しいお話でございます。
祟りだったのか、体が衰弱しながらも一命をとりとめたのはこの世に成すべき大役が残っていたからでしょう。
南無阿弥陀仏
今日も私は唱えています…
皆が健康で幸せに暮らせますようにと。
野中さまより

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