伝説紀行 御側川の七人塚  矢部村


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第127話 2003年10月05日版

2008.01.27
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

御側川の七人塚

福岡県矢部村


矢部の七人塚

 征西将軍が矢部村に逃げてきた

 三国(肥後・筑後・豊後)を分ける地点に聳える三国山あたりを水源とする三国川(矢部川)と、杣の里から流れくる御側川(おそばがわ)が合流するあたりに「北向」という地区がある。矢部村役場や矢部小学校が建つあたりだ。校庭のすぐそばの農地に1基の塚を見つけた。「七人塚」と呼ぶそうな。中央の丸い石を取り囲むようにして、6つの石が置かれている。
 ときは足利と後醍醐天皇が激しく争った「南北朝」時代も終わりに近づいた頃のこと。第35話の「太刀洗の由来」で紹介した筑後川の戦いで勝利した征西将軍・懐良親王(後醍醐天皇の第5子)軍は、菊池一族に守られて肥後に移った。その後北朝方が派遣した今川了俊によって、再び九州は戦乱の世に。懐良親王から征西将軍の座を引き継いだ甥の良成親王(後征西将軍)のいる肥後八代が、了俊の標的になった。(写真は良成親王といわれる墳墓)
 戦況不利と見た親王は、兵を率いて北上し、自然の要塞をなす山奥の矢部に落ちた。追いかけてくる了俊の兵は、矢部川の北側(現在の矢部村役場あたり)に陣を張った。

七人の落武者が一軒家に隠れた

 了俊の陣地を川向こうに見て、南岸の一軒家の馬小屋に、菊池の七人の武将が隠れていた。一軒家にはヨネとヤエの母娘が住んでいる。
 母親のヨネは、命あってのものだねと、逆らわないようヤエに言いつけた。七人が逃げ込んで以来、母子は朝昼晩の食事を出した。日がたつにつれ、武者たちにも疲れが見え始めた。
「ああ、白か米の飯が食いたか」
 肥後育ちの手下の一人がぼやいた。すると、外の者たちも同じことを言った。
「何とかならぬか?」
 これ以上放っておいたら、気の荒い連中のこと何をしでかすかわからない、頭格の武将・吉野がヨネに相談した。
「と言われましても、もともとこの家には母娘が食べるだけのものしか蓄えていません。お侍さん方のように食べ盛りの方だと、米俵もすぐに空っぽになります」
 無理を承知の相談を断られて、外の武将たちの怒りが爆発寸前になった。

食料調達の娘が捕まった

 このままだと殺されてしまうと怯える母親を見て、ヤエが川向こうの伯父さんの家から米を貰ってくると言いだした。
「あそこには、敵の見張りが大勢いるじゃろが。そげな危なかとこに行ったら殺されてしまうが」
 ヨネが娘を必死で止めた。
「大丈夫だ、あんたの娘さんなら、我らを裏切ることはない」
 背に腹は代えられぬということか、吉野はあっさりヤエの外出を許可した。ヤエは、決死の覚悟で外に出ると、三国川の浅瀬を渡った。

娘の白状で七人は一網打尽

「そちの家に、怪しいものを匿っておろう」
 伯父に密告されて捕まったヤエが厳しい取調べを受けることになった。
「いいえ、家にはおっかさんとあたいの二人きりです
「そんなはずはない、二人だけの暮らしにどうして米が1斗も必要なのか。怪しい」写真:御側川上流
 ヤエは裸にされたうえ、鞭でぶたれることになった。何度も気を失っては水をかけられているうちに、裏の馬小屋に七人の武将を匿っていることを白状してしまった。
 ヤエの白状を得て数百人の兵が一軒家になだれ込み、菊池方の七人を捕えた。荒縄で縛られて出て行く吉野が、恨めしそうな目でヨネを見て、「この恨み死んでも忘れまいぞ」と吐き捨てた。それからというもの、矢部地方は毎年毎年干ばつと疫病に悩まされ続けることになる。
 ヨネとヤエは、これも密告して首を打たれた7人の武将の祟りだと恐れ、御側川から担ぎ上げた石を馬小屋の脇に積み上げて塚とし、いつまでも供養した。これが、北向地区の畑に残る「七人塚」の由来だそうな。(完)

 役場の教育長をしておられる椎窓さんが七人塚に案内してくれた。名産のシャクヤク畑の中に、塚は静かに立っていた。「すぐ近くにいながら、私も久しぶりに来たくらいだから、村の者も塚のことを忘れてしまいました。でも、平和を願うものにとって、忘れてはならない遺跡なんですよ」とは、椎窓さんの述懐である。

*村の沿革  福岡県の南端に位置する。東は大分県前津江村・中津江村、南は熊本県菊鹿町・鹿北町、西は黒木町、北は星野村に接する。その三角点に聳えるのが矢部川の源流・三国山ということになる。起伏の激しい地勢で、耕地面積はわずか4.6%。杉の山林が85.2%を占める典型的な山村であった。

後征西将軍略歴

(矢部村史より抜粋)

年号 西暦 略歴 参考
延元01 1336 後醍醐天皇、吉野遷幸。南北朝分立。
延元01 1336 懐良親王、征西将軍として九州へ 室町幕府成立
興国03 1342 懐良親王、島津定久を薩摩に破る。
正平06 1351 懐良親王、溝口城を落とし瀬高に。
正平14 1359 大保原の戦いで、親王勢が少弐方を破る
正平16 1361 良成親王、誕生。(父後村上天皇)
正平21 1366 良成親王、九州へ。
建徳02 1371 今川了俊、九州探題に。
文中1 1372 今川了俊、懐良親王勢を破り太宰府占領
文中04 1375 菊池軍、高良山で足利義満の軍と戦う。
天授2 1376 征西将軍を良成親王に譲る
弘和01 1381 菊池城落城。良成親王、難を逃れる。
弘和03 1383 懐良親王、逝去。
元中8 1391 八代城落とされ、良成親王矢部高屋城に移る 南北朝の合一

後村上天皇の皇子

順位 名前 生存年 天皇位
第一皇子 寛成親王 1343−94 長慶天皇
第二皇子 熙成親王 1347−1424 後亀山天皇
第三皇子 惟成親王 ?−1423
第四皇子 泰成親王 1360−?
第五皇子 師成皇子 1361−
第六皇子 説成皇子
第七皇子 良成皇子 ?−1395? 後征西将軍

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