伝説紀行 孝子弥四郎  筑前町(夜須)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第126話 2003年09月28日版

再編:2008.01.01 2017.04.16 2018.07.15
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

 「よか男」の条件
孝子弥四郎

福岡県筑前町(旧夜須町)


孝子弥四郎像 

親孝行

 ときは、伊能忠敬が日本地図を描くために蝦夷地(北海道)に向かった享和(1801〜1804年)の時代。筑前国の朝日村(現福岡県朝倉郡夜須町)に住む弥四郎は、親に孝行を忘れない働き者であった。この地方では、行いがよくて親に孝行するもののことを総称して「よか男」と言った(美青年の意味とは違う)。 どんな風に「よか男」だったか、いくつかの例を挙げてみよう。

 朝起きたらまず、両親にご挨拶

 朝日村とは明治22(1889)年までの村名で、現在の朝倉郡筑前町大字朝日のこと。場所的にいうと、国道386号(朝倉街道)を福岡から朝倉方面に向かってJR筑豊線を潜って間もなくのところにあたる。左手に見える森(朝日山日照寺跡-写真)を目印にすればわかりやすい。
 当時の朝日村は、田64町歩・畑15町歩・山林5町歩で、村の人口が400人程度と記録されているから典型的な農村であったろう。
 さて、弥四郎にみる「よか男の条件」の第一は・・・。朝早く起きだして、まず父の文五郎と母トミにお目覚めのご挨拶をすることから始まる。


「今朝はシジミの味噌汁が食いたかね」と文五郎が呟けば、弥四郎はしょうけ(竹篭)を掴んで駆け出して冷たい水も厭わずに山家川(やまえがわ)に入って砂をかき分けた。
「師走になると、布団が冷たかね」と、母親が独り言。聞き洩らさない弥四郎は、母がいない隙をみて布団にもぐって暖める。
「気持ちよかね、ぬっか(暖かい)布団は」と満足そうな母を見て自分も満足する息子であった。

行儀がいい

「よか男」と呼ばれるには、少々辛いことでも我慢するのが肝要。寒いからといって、人並みに頬かむりなどするのはもってのほか。いつも人様に挨拶ができるように心の準備を怠らないことだ。畑仕事の最中に老人や庄屋さんなどが通りかかったら、どんなに遠くにいても笠をとり、大きな声で挨拶する。
「こんにちは。今日はよか天気ですね」と。すると相手も気持ちがいいもんだから、「おお、弥四郎どんか。せいが出るのう」と応えてくれる。お陰で、両親も村の人たちといつも仲良く暮らしていける。

働き者

 親孝行と行儀のよさにもう一つ、「よか男」の条件をつけ加えよう。弥四郎は、まだ朝星がキラキラしているうちに田んぼに出て、稲が発する要望を推し量りながら水の張り具合を調整する。取って返すと、(かわや)の汲み出し口から下肥を汲みだす。「臭い」なんて一度も思ったことはない。天秤(てんびん)を担いで里芋やさやえんどうなどが植えられた野菜畑に運ぶ。野菜の一株一株に話しかけ、害虫の被害とか病気がちな野菜がないか聴取する。「腹減った」と泣き言を言うかんらん(キャベツ)には、たっぷり汲みたての下肥をかけてやる。「喉が渇いた」と駄々をこねる唐きび(トウモロコシ)の声が聞き分けられるのも弥四郎の特技だ。肥たごいっぱいに汲みだした山家川のきれいな水をかけてやる。
 こんな具合だから、弥四郎の田んぼは毎年豊作、野菜も元気はつらつだ。加えて、両親はいつでも新鮮な野菜を食べることができる。

飼い馬に優しく

「よか男の条件」その4。弥四郎はハナと名づけた雌馬を飼っている。ハナには、どんなときでも柔らかな草を食べさせる。
 ハナに何かを運ばせるときは、必ず「お骨折りじゃろうばってん、いっちょう頼むばい」と頭を下げること。するとハナも「どういたしまして」と得意げに大きな鼻を鳴らして応える。
 一日の仕事が終わって、馬小屋に入るハナに向かって、声をかけるのも弥四郎の大事な勤め。
「今日も一日ご苦労じゃッたない。おまえのお陰で、仕事がばさらか(たくさん)片付いたけんの。今晩はゆっくり休んでくれんの」と、声を出して労うことにしている。
 庄屋さんに頼まれて6里離れた博多まで、娘さんの嫁入り道具を運ぶことになった。庄屋さんにとって目に入れても痛くないほどに可愛い娘であり、箪笥長持ちから鍋釜まで花嫁道具の一式を運んだ。荷物が多い分、ハナにかかる負担が大きかった。重そうに荷車を引っ張るハナに、「きつかろばってん、頑張ってない」と声をかけ続ける。坂道にかかると、車の後ろに回って押してやる。どんなにハナがくたばっても、鞭を当てることはしてはならない。
 荷を降ろしての帰り道。疲れきった様子のハナを少しでも楽にしてやろうと、背中の鞍をはずして、自分が担いだ。庄屋さんにいただいたご褒美で、ハナにはきれいな髪飾りも買ってやった。

他人を労わる心

 以上のことだけでも「よか男」の条件としては十分だ。だが、弥四郎の場合はそれだけではすまない。ある日、家の前を虚無僧さんが通りかかった。門に立って、尺八を吹き銭か米をいただいたら、次の家に向かう。「そろそろうちにこらっしゃるばいの」と待っていたら、あっさり通り過ぎてしまった。「うちが貧乏じゃけん、遠慮しなさったつじゃろか」
 弥四郎は、慌てて米びつの中の飯を握り、手製のたくわんを添えて、虚無僧さんを追いかけた。
 そんな弥四郎の善行が、村の評判にならないわけがない。「弥四郎さんちや、何をすっでん、まず他人様の気持ちば考える人たいね」「自分なひもじかめに遭うても、まず親父さまとおっかさん、それから馬に食べさせる。誰にでんできるこつじゃなか」

もう一度、親孝行

 弥四郎が29歳になった文化2(1805)年、自分の命より大切な母親のトミさんが不治の病で寝付いてしまった。これまで大きくしていただいたおっかさんを少しでも楽にしてあげたいと思い、弥四郎は付きっ切りで看病した。母の汚れ物を洗うことを嫌がるようなことは絶対にない。
「スースーするね」(風が入り込んで寒い)
 トミさんがうわ言を言って、布団のヘリを頭まで引き上げた。貧乏故に何年も家の手入れをしていない。麦藁屋根を葺き替えたのも20年前か。北風が容赦なく吹き込んできた。
「可哀想に、おっかさん」
 でも、自分が屋根に上って風穴をふさげば、下で寝ているおっかさんを上から踏みつけることになる」と考える弥四郎は、ありものを下から当てて隙間風を止めた。

殿さまに褒められて

 弥四郎の評判は、見回りの奉行の耳にも入り、後日お城に上がるよう告げられた。
 殿さまは、「夜須の朝日の弥四郎は、親に孝行尽くすなり・・・」と歌を添えて、「孝子弥四郎に、田地3段3畝」をくださり、その上に、「生涯つくり取り」のお墨付きまでいただいた。「生涯つくり取り」とは、一生年貢を納めなくてよいこと。


写真は、孝子弥四郎顕彰碑


「弥四郎はわが村の誇り」として、村内に「孝子弥四郎の碑」まで建てることになった。この碑、現在も山家の交差点近くに大切に保存されている。
「よか男」の条件は、このくらいで十分だろう。ところで、こんなよか男の弥四郎さんに、28歳になるまで嫁の来てがなかったのはどうしてか?(完)

 弥四郎はもちろん実在の人物である。黒田の殿さまから褒美を貰ったとき、彼は44歳だったそうな。その3年後には、弥四郎の評判は都に及び、本願寺の法主から過分のお褒めの文書と、「釋浄信」なる有り難い戒名までいただいた。このように「よか男」の手本をなした弥四郎は、文久元(1861)年4月23日、83歳でこの世におさらばしている。
 たわわに稔った稲穂が頭を垂れ、彼岸花が咲き誇る9月の末に旧朝日村を訪ねた。生家の近くの顕彰碑を拝見し、日照寺跡に造られた黒田斎清公作の歌碑を眺め、お墓に手を合わせた。
 お彼岸の納骨堂参りに来たおじさんに話しかける。「なかなか立派な歌碑ですな」と。するとおじさん、「黒田節ち知っちゃるでっしょ、あの節で歌いなさるとよかですよ」。「あなたたち村民にとって弥四郎さんの存在の意味は?」。「そうですな、この頃親孝行もんがおらんごつなりましたけん、もう一度見習うとよかです」。「こげんりっぱな碑があるばってん、祭りかなんかしよんなさるですか?」。「むかしは、学校からお参りに来よりましたばってん・・・、今は・・・」。「はあ?」。「子供ば連れちくると自動車が危なかちゅうて、その代わりに代表が来よるごたるですよ」だって。
「孝子***」のお話や石碑は、全国どこででも見かける。孝行した年代も弥四郎さんに似ている。本当の話。世の中がなかなかお偉いさんの言うことを聞かなくなったとき、幕府の方で「孝子***」を押し付けたという噂もある。

 どこかで聞いたことのある「教育勅語」のことが、どうも頭の片隅から離れない。

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