伝説紀行 


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第122話 03年08月31日版
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。
 

有王淵

福岡県浮羽町


夜明ダム直下の有王淵(獺の瀬)

 筑後川は、夜明ダムの堰の直下から大きく左に旋回し、円を描くように迂回している。このあたり、むかしから住民や旅人に恐れられる急流であった。ダムを挟んで大分県の日田市、蛇行する右岸が福岡県杷木町、その対岸が浮羽町である。川が大きく蛇行するあたりを別名「長渕」とも「有王淵」とも呼ばれた。
 江戸時代初期の筑後絵図には、その深さ13尋(ひろ)と記されている。1尋が両手を伸ばした長さだから、裕に二十数メートルはあったことになる。 

鹿ケ谷の陰謀

 ときは800年以上もむかしの平家全盛時代。平清盛は、平氏一族の独裁体制を不動のものにするため、他の部族や平家に反対・批判する勢力をことごとく弾圧した。特に清盛にとって白河法皇は目の上の瘤(こぶ)である。清盛の妻時子の妹滋子(建春院=けんしゅんいん)は法皇の后であったが、滋子が死去すると批判勢力の動きが急を告げることになった。平家による官職の独占により排除された法皇の近臣・成親、西光、僧俊寛などがその代表格である。
 治承元(1177)年、彼らは京都郊外の鹿ケ谷で平家打倒の謀議をめぐらしたが発覚して、さらなる弾圧がのしかかった。世に言う「鹿ケ谷の陰謀」である。清盛は、彼らの黒幕と考える白河法皇を幽閉してしまう。乗じて、関白以下貴族の官職をことごとく剥奪して、首謀者を島流しにし、国家機構のほとんどを平家一門で掌握した。
 だが、こうした強硬手段は、次なる批判勢力を目覚めさせることになる。源頼朝による挙兵はそれからしばらくの年月を経てからのことであった。

三春の里に年端もいかぬ旅人が

 ある時、三春の里(現福岡県浮羽町三春)に未だ15歳に満たない少年が南の方角からやってきた。頬はこけ、足元もおぼつかない。
「もし、そこのお若い人」
 川漁をしている藤助が声をかけたが返事がない。少年は返事する気力さえ失せているようだ。藤助はとりあえず若者を家に連れていきソバ飯を食わせてやった。
「ありがとうございます。なれど、これ以上構わないでください」
 元気を取り戻したところで、若者は出て行こうとする。慌てて引き止めた藤助がわけを訊いた。
「実は、私の父は都の仏勝寺の僧侶で俊寛と申します。その父が鬼界島に流されたため、訪ねての帰り道でございます」
「俊寛といいますと、もしかして・・・」
「そうです。平家の転覆を狙って画策した罪で南の孤島に流されたあの俊寛でございます。父ばかりか、恐れ多くも白川ご法皇さままで閉じ込められておいでです。でも・・・」
「どうなさったのです?」
 藤吉は、少年が慌てて口をつぐんだことに気をつかった。
「安心してください。俺は平家の味方でも何でもねえ。よかったらあんたの考えを聞かせてください」
 藤助の言葉に安心したのか、少年はこれまでのいきさつを話し始めた。

父は息子の顔を見て息絶える

「私の名前は有王丸(ありおうまる)と申します。わけあって物心つく前に武家の屋敷に引き取られました。ある日、物々しい役人が大勢で館を取り囲んだのです。育ての親の父は、私の素性を打ち明けたあと、俊寛の類が身内全体に及びそうなため、一人で逃げるように言って自害しました」
「かわいそうに、それで・・・」
「私は実の父に会いたい一心で、人伝てに訊いた鬼界島を訪ねました」


夜明ダム以前の獺の瀬(うきは市)

「都から鬼界島と言えば、山・川・海を渡らなきやならねえ。年端もいかねえあんたじや大変だったろう。それで、実のととさんに会えたのかい」
「はい、ようやく鬼界島にたどり着き、洞穴に閉じ込められている父との面会が許されました。でも、父には食事もろくに与えられず、ただ死を待つばかりの状態でした」
「飯も食わせねえとはひどい話だ。それで?」
「父は訪ねてきた私を見て涙して喜びました。でも・・・」
「どうしなさった、その次は」
「はい、父は私の顔を見て安心したのか、その場で息絶えました」

川魚を食べて旅たった・・・が

 悲嘆にくれる有王丸は、鬼界島を出て、薩摩から山を越えてやっと三春の里までやってきた。だが行く手に立ちはだかった筑紫の川(筑後川)に阻まれ、「私のような弱い人間には到底渡ることができません。途方にくれているところをあなた様にお助けいただいたという次第でございます」と、有王丸は藤助に話した。
「そうでしたか、ご苦労なさったんですね。でもね、あんたはまだ若い。これから父上の遺志を継ぐために修行なさい。いつかは平家の天下も崩れましょう。そのときあんたの修行が生きるんです。何よりも生き続けなければなりませんぞ」
 藤助は、その日収獲した川魚を料理して、腹いっぱい食べさせた。
「何から何まで、お世話になりました。このご恩は終生忘れません」
 有王丸は、何度もお礼を伸べて藤助の家を跡にした。

立場が大逆転

「大変だ、旅の若衆が長渕に飛び込んだ」
 漁仲間の直一が飛び込んできた。藤助の胸を不吉な予感が走った。とるものもとらず駆けつけると、川岸に有王丸の持ち物である杖と包みが丁寧に揃えて置いてあった。
「やっぱり・・・」
 跪(ひざまず)いた藤吉は、涙ながらに風呂敷包みを広げた。中から、手記のようなものがでてきた。
「励まされても、我の力は、所詮目前の飛沫(しぶき)に飲みこまれ、藻屑(もくず)のようなもの。願わくば、後の世の人々に、平家を倒し、亡父の無念を晴らしたまえ」
 人の世は皮肉なもの。有王丸が長渕の激流に飛び込んだ翌年(養和元年=1181年)には平清盛がこの世を去っている。そして間もなく、文治元年(1185年)3月には、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した。その時を境に、追うものと追われるものの立場が完全に逆転するのである。
 藤助は、村人といっしょに有王丸を丁重に弔い、淵を一望する岬に祠を建てて、さらに投身した淵を「有王淵」と名づけた。父を思う孝子有王丸の名を語り継ぐために。(完)

 昭和28年、水力発電のための夜明ダムが造られた後、川の様相も一変する。1キロ下流の発電所で放水されるまでの間、川底が丸見えの大小岩石が散らばる水なし川と化したのである。田栄神社脇に立ってみると、ダム完成前の急流を竹竿1本で操るいかだ流しが彷彿と甦る。
 最近物知りから聞いた話だが、今日では夜明ダムの必要性はほとんど薄らいでいるとか。勇気ある人あらば、ダムを取り除いてむかしの風流な有王淵を再現して欲しいな。

ページ頭へ    目次へ    表紙へ