人斬り谷
大分県日田市上津江村
(写真:人斬り谷付近)
旅の娘が山賊に襲われた
上津江村の大半は山地で、筑後川の源流地帯だ。車で走っていても、周囲は山ばかりで、谷底を見ても、深くて暗くて何も見えない。江戸時代までは、日田方面から熊本の菊地に抜けるには、昼なお暗い山道だが、避けては通れなかった。必定このあたりには旅人を襲う悪い奴が横行した。
白草(はくそう・上津江村白草地区)というところに木こりの松次郎が10歳になる息子の卯吉と二人で暮らしていた。
ある日、旅の娘香代が青い顔をして駆け込んできた。供の吉之助を連れて菊地に住む叔母を見舞う途中だったが、都留(つる)の集落を出たところで山賊に襲われ、吉之助は崖下にヶ落とされたと告げた。
「その山賊の人相は?」
「背丈は6尺(1.8b)以上、がっちりした体格で顔は髭だらけ。今にも飛び出しそうなギョロ目で、手に竹竿ほどの剣を持っていた」と香代の説明は念が入っている。
「やっぱり」
松次郎がうなずくと、横に座っている卯吉がそれ以上に大きく首を縦に振った。
「やっぱり、とおっしゃいますと?」
今度は香代が訊き返した。
「いやね、ここんとこ山賊の被害届が多かとたい。みんなあんたを襲った髭むじゃ男たい。かわいそうに、あの白草川(はくそうがわ)の谷に落とされたんじゃ、あんたのお供は助からんばい。何たって、崖から水面まで40間(72b)はあるけんね。あの谷のことば、このへんでは人斬り谷と呼ぶくらいじゃから」
無敵の山賊にやさ侍が挑む
吉之助をなくしたうえに有り金をすべて山賊に奪われた香代は、行くも帰るもままならず困り果てていた。
「大丈夫たい、そのうち日田に向かう旅人にあんたを迎えに来てくるるごつ手紙ば託せばよか」
松次郎は、卯吉と香代を残して今晩食べる川魚と山菜を採りに出かけていった。
「強かつばい、お姉ちゃんから金ば盗った奴は。ばってん、俺が大きくなったら必ずそいつをやっつけちゃるけん」
卯吉は、香代を怖がらせないために慰めを言った。
「頼もう!」
翌日、松次郎の家にどこかの坊っちゃん風の侍がやってきた。
「拙者は富田又兵衛(とんだまたべえ)と申す。噂によればこのあたりに旅人を襲う山賊が出回っているとか。腕試しにその山賊を退治したいと思うが、どこにまいれば会えるのかのう?」
卯吉と香代が思わず噴出した。
「何がおかしい?不愉快でござる」
優男の侍は、女子供に馬鹿にされたことで、プライドがグラグラと揺らぐのを食い止めようと大声で抗議した。
「ご免なさいよ、笑ったりして」
松次郎が二人に代わって謝った。
「拙者のような色男が喧嘩に勝つわけないと申されるのか。失敬であろう。これでも拙者は武士の端くれ。勝負はやって見なければわからんではないかっ」
谷底へは断崖絶壁
日暮れも近くなって、松次郎は富田又兵衛と卯吉・香代を伴って1里下った人斬り谷にやってきた。きのう香代と吉之助が山賊に襲われた場所である。あのときは恐怖で周囲を観察する余裕などなかった香代だったが、今日は地元のものには絶対に手を出さない山賊の習性を聞かされて香代も安心していた。よく見ると、菊地への道は左右の原生林が覆いかぶさり、夜のように暗い。
奥津江(上津江)の山中
「お姉ちゃん、覗いてみな」
卯吉に促されて香代が谷底を見た途端、目が回ってその場にしゃがみこんでしまった。遥か彼方の眼下に勢いよく水が流れている。岩を砕く激流の音が、拡声器で聞くように香代の耳朶(じだ)を揺さぶった。
「だらしなかな、お姉ちゃんは」
卯吉がへたり込んでいる香代をあざ笑うように飛び跳ねて、やがて岸辺から姿を消した。
「卯吉、悪さばかりしよると、ほんなこつ谷底に落ちてしまうが」
父の叱咤で、崖の途中の松の木にぶら下がっていた卯吉が、舌を出しながら這い上がってきた。
「脅かさないでよ、卯吉さん。ところで、お侍さんは?」
そういえば先ほどから又兵衛の姿が見えない。
「おじさんなら、あっちこっちうろついているよ。枝を折ったり、泥を掘ったりして・・・」
あの優さ侍、いったい何を考えているのか、香代にはさっぱりあけがわからなかった。
山賊と又兵衛のヘンチクリン問答
「隠れろ!」
松次郎の合図で、香代と卯吉が断崖から50b離れた樫の大木に隠れた。又兵衛を断崖の脇に残して。「ガサガサ」足元の熊笹が音を立てて揺れると、きのう吉之助を突き落とした大男が立ち上がった。
「やい、そこな優男。有り金全部置いていけ。そうすれば、命だけは助けてやる」
ドスのきいた大声で男が吠えた。又兵衛は何を勘違いしたか、断崖の端に生えている檪(むく)の木を背に立った。
「金は持っているが、貴様のような悪にくれてやる金なぞ一文も持ち合わせぬわ」
又兵衛が、か細い声で応えた。これからはしばらく、野性味たっぷりの大男と錦絵から飛び出した役者のような小男の問答をお聞きあれ。
「お前のような女みたいな男が、こんな淋しい山道を歩くとは、無用心な」
「そんなこと、貴様にだけは言われとうないわ」
「金を出さなければ、どのようなことになるのか、おぬしはわかっていないようだ」
「どうするつもりだ」
「知れたことよ。俺さま自慢のこの長刀で八つ裂きにするまでよ。そのまま死体を放っておいて野犬や鳶に食われるもよし、望むなら、谷底に蹴落としてやるが。そうすれば、淵の魚たちが寄ってたかっておぬしの骨までしゃぶってくれるわ」
「そんな台詞しか吐けぬのか、貴様は。だから教養のない人間はつまらんと言うのだ。よいか、人間は脳みそを使う生き物だということを知らぬのか」
「・・・・・・?」
「そんなこともわからんのか。戦いは力持ちが勝つとは限らんということだ。頭を使えば、貴様のような能無しを負かすことくらいわけのないこと」
「何をこしゃくな」
大男は、言い終わらないうちに長刀で又兵衛の両足を払った。
華麗なる決闘?
思わず目をつぶった香代。ぐっと身を乗り出した松次郎と卯吉。お祖母ちゃんからきいた牛若丸(源義経の幼名)と弁慶の決闘のことを思い出した。足を払われて、谷底に落ちたはずの又兵衛は澄ました顔で山賊の手前に立っている。大男の股間をすり抜けて立場を入れ替えたらしい。大男は断崖まであと1bの場所に。
今度は男が檪を背にした。
「やいやい、貴様は図体だけ一人前だが、頭と心臓はおけら以下だな」
「なんだと!」
「悔しいか、その長刀が邪魔じゃないのか?」
又兵衛の挑発は止まらない。
「おっ、大蛇だ!」
上津江の山中
又兵衛は、叫ぶと同時に長い蔓(かずら)を男に向けて投げだした。男は半歩後ずさり。後に立っている檪の木が安全パイと考えたのか、余裕たっぷりに寄りかかった。だが、その油断が大逆転劇を演出した。山賊男は、叫び声と同時に断崖絶壁から底なし谷へまっ逆さま。まるで、サッカーにおける自殺ゴールを見ているみたい。
なにがどうなっているのかさっぱりわからない香代が又兵衛に駆け寄った。
勝因は周到なる準備から?
「なーに、大したことではござらぬ」
又兵衛は裾の埃を叩きながらすまし顔。
「又兵衛さんは、あんたが谷底を見て目を回している間に、山賊との決闘の場を下調べしていたつたい。檪ば主な作戦の道具ち考えて、隙を見て体ば入れ替えた。そうですよね、又兵衛さん」
「でしょう?」と言われても答えようがなくて、又兵衛はただニタニタしているだけ。松次郎の戦闘解説は続く。
「その檪の木にも、又兵衛さんはしっかり仕掛けを施していた。もたれかかった枝がすぐ折れるように傷をつけて」
「でも、あんなにもろく谷底に落ちるとは」
「そこが又兵衛さんの頭のよかところたい。檪の木の根っこの土を掘り起こして柔らかくしていたつたい。そこに山賊が重い足を乗せたけんひとたまりもなかちゅううわけ。あれ、又兵衛さんは?」
さっきまでニタニタしながら松次郎の解説を聞いていた又兵衛の姿が消え失せた。
肥後との国境にある黄金の滝
「菊地の方に走って行ったよ」
卯吉が、もう帰ろうと父と香代の手を引いた。途中松次郎が小用のために道をそれた隙に、卯吉が香代に囁いた。
「父ちゃんの言ってるのはみんな嘘」
「嘘?」
「そう、実は又兵衛さん、緊張のためうんこがしとうなって、俺たちに見えん場所を探していただけたい。丁度檪の木の陰を見つけて枝で穴を掘って座りこんだつたい」
「そんなあ」
あきれる香代に卯吉は、父ちゃんのプライドを傷つけないように黙っていてくれと頼んだ。
「それで又兵衛さんは、恥ずかしくて逃げ出したというわけ? でも、それならどうして松次郎さんや山賊の前であんなに強がり言ったの」
「あんなふうに言わんと誰も相手にしてくれんのが悔しかったのじゃななかね。伝兵衛さんの口からでまかせたい。そげなこつもわからんと、香代さんちゃ、頭が悪かね」
「何よ、それ!」
香代が本気で怒って卯吉を追いかけた。
「おーい待ってくれ、父ちゃんを置いてかないでくれ」
松次郎が、小用のあとの前裾も直さずに、二人を追いかけてきた。(完)
話には聞いていたが、上津江村に入ったとたん、どこまで走っても山ばかり。国道387号にそって川原川が流れているが、谷底を見通すのは無理。激しいせせらぎだけが聞こえてくる。肝心の白草川沿いにあるはずの人斬り谷がどこなのか、同じような景色ばかりでさっぱりわからない。天気はいいし、座り込んで、香代と卯吉、山賊と伝兵衛のやりとりを想像してみたが、山道があまりにも整備されすぎていて実感が湧いてこない。物語を考えるよりも水彩画でも描きたくなった。
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