大蜘蛛の復讐
六十淵(ろくじょうぶち)
大分県上津江村
川底まで100bもある六十淵
梅雨期を間近にして、久しぶりに上津江村を訪ねた。日田市内を抜けて大山町から松原ダムへ、更に下筌ダムを左手に見下ろしながら、ようやく目的地に到着した。
年初めの水不足が嘘のように、松原・下筌両ダムの貯水量は申し分なさそう。上津江村は、南北に川原川と大平川、それに上野田川が並行して流れ、合流した後は中津江村から下りてきた鯛生川と合流して下筌ダムに注ぐ。三つの川を登っていくと、そこは阿蘇の外輪山であり、筑後川のもう一つの源流である。上津江村は、その90%が山林で、標高は約300b。ところどころに点在する民家に出会うとホッとするくらいに山が連なる。
一番東側を流れる上野田川をどんどん南に走ると、畑中という地区があり、そこに「六十渕」と書かれた深い渕があった。
蜘蛛の糸で大岩が揺れる
谷間を流れる上野田川の渓谷は、道路から水面まで50b以上もある断崖絶壁。写真に収めたくても、足元が不安定で、動きが取れない。
でも、地元に住む人たちとって、そんな大自然こそが最大の味方だ。山の幸・川の幸が選り取りみどりなんだから。どんなに敵が攻めてきても、すばやく身を隠す術はお手のもの。この怖い話は、護岸工事など近代化がすすむずっと以前のことである。
畑中村に野次郎平衛と名乗る男が住んでいた。仕事は嫌いで、渓流釣りが飯より好きというちょっと変わり者。今日も生い茂る小枝を掻き分けて上野田川の渕に下り、釣り糸を垂らしていた。だが、どうしたことかなかなか手応えがない。仕方ないから大岩の上に寝そべっていびきをかき始めた。
そこに、グッグッと釣竿が動いた。確かな手応えである。釣り上げたのは、最近ではなかなかお目にかかれない大物ヤマメであった。
「よしよし、俺さまに釣られたお前は幸せものだ。おいしく焼いて食べてやるから夕方まで待っていろ」
野次郎平衛は魚に言い聞かせるようにして、篭の中に放り込んだ。その時、渕の向こうから水面を這うようにして怪しい影が近づいてきた。よく見ると、見たこともない真っ黒い大きな蜘蛛だった。蜘蛛は岸に上がると野次郎平衛に近づき、ピョンと跳ねて手の甲に乗り移った。蜘蛛は口から白い糸を1本だけ吐き出して野次郎平衛の小指に巻きつけると、また水面に戻り、向こう岸に泳いでいった。
何がなんだかわからずに、また釣り糸を垂れた。すると間もなく2匹目のヤマメが釣れた。その瞬間を待っていたかのように、また黒蜘蛛がやってきて2本目の糸を吐き出し、野次郎平衛の小指に巻きつけた。3匹、4匹、5匹と同じ動作が繰り返され、釣れたヤマメと蜘蛛の糸が同数の60になった。
「こんなに釣っても、俺一人では食えないから、残りは畑の肥やしにでもするか」
ブツブツ言いながら、獲物篭を背中に担いで立ち上がろうとした。
「小指の蜘蛛の糸が邪魔だな」
そこで、60本の糸をひとまとめにして、座っていた大岩に押し付けた。
「よっこらしょ」
野次郎平衛が立ち上がったその時、岩がグラグラと動き出した。
60匹もの魚を釣った罰
地震なら間もなくおさまるはずだが、岩の揺れはいつまでも続いた。そのうちに立っておれなくなって座り込む。すると今度は縦揺れ。とうとう、体ごと渕の中にまっ逆さま。命からがら岸に這い上がると、今度は川岸に立っている大きなケヤキのてっぺんから気味の悪い声が落ちてきた。
「野次郎平衛、お前はヤマメを何匹釣った?」
「60匹だ、それがどうした。お前は何者だ?」
野次郎平衛も空元気を振り絞って、口答えした。
「まだわからんのか。ヤマメを釣るたびに、お前の小指に糸を巻きつけていたあの蜘蛛の精だ」
「それで俺を怖い目に合わせておいて、いったい何の用だ?」「この欲張りめが。お前が食う分だけなら許しもするが、大事な川の主を肥やしにしようなんてとんでもない奴だ。1匹残らず釣ったヤマメを川に放せ」
「嫌なことだ。俺さまはこれから村中に釣り自慢をするんだから」
野次郎平衛は、慌てて崖をよじ登ると、一目散に家に逃げ帰った。それからのことは、まったく記憶がなく、深い眠りに突入した。
「やーい、仕事もできなきゃ、釣りも駄目、野次郎平衛は役立たず!」
頭上からの子供の声で、目が覚めた。家で寝ているはずなのに、昨日と同じ大岩の上である。子供たちは山の方で騒いでいる。
「馬鹿言え、俺さまは60匹もヤマメを釣ったんだぞ。役立たずとはなんだ。取り消せ」
大人げもなくむきになって言い返した。
「馬鹿はそっちだ。篭の中は空っぽじゃないか。何が60匹のヤマメだい」
そんなはずはない。野次郎平衛が改めて篭を覗くと、中には1匹のヤマメも入っていない。代わりに笹の葉が60枚そろえるようにして置いてあった。
「糞っ、俺を馬鹿にしやがって」
野次郎平衛は、魚が釣れなくて退屈して、そのまま大岩の上で夢を見ていたのだ。だが、そのことを素直に認めたくないために、大声で渕の水面に向かって怒鳴って立ち上がった。そこに本物の地震が襲い、野次郎平衛は頭から深い渕に転落し、2度と浮かび上がらなかったとさ。(完)
「よい大人が、身の程を知って行動しろ」ということなのか。「渓流の主であるヤマメをむやみやたらに殺すな」と言う神の言葉か。それからというもの、野次郎平衛が沈んでいる渕には誰も近づかなくなった。そんなことがあって、この渕を「六十渕(ろくじょうぶち)」と呼ぶようになった。
谷底から反射しながら上って来る渓流の音を聞きながら、しばらく放心状態になっていた。中流域に住む僕らは、筑後川の源流のことをよく知らない。阿蘇の外輪山のように見渡す限りの草原もあれば、いつの間にか陸が川になっている伏流の魔術に騙されることもある。ここ六十淵は、そんな想像すらさせてくれない、深い深い谷底なのである。
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