伝説紀行 お島さん参り 人身御供 鹿島市


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第107話 2003年04月20日版
再編:2018.07.29
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

おしまさん参り

佐賀県鹿島市


有明海上(岩礁)のお島さん像

有明唯一の岩礁

 有明海には、岩礁で形成された島がたった一つだけある。佐賀県鹿島市の港から約5`東に浮かぶ沖ノ島である。この島雄島と雌島からなっているが、潮の満ちひきによって顔を出したり隠れたりする。干満の差が特徴の有明海ならではの現象かもしれない。そんなわけで、このゴツゴツした岩の上に住み着こうとする人はいまだかつて一人もいなかった。だが、年に一度だけ(旧暦6月19日)、四方八方から漁船を連ねてこの無人島に人々が押し寄せる。「沖ノ島参り」またの名を「お島さん参り」という名のお祭りだ。この祭り、豊漁祈願かと思いきやさにあらず。海の真ん中で五穀豊穣を願う雨乞い祭りなのである。
 沖ノ島は別名「御髪島」とも呼ぶそうな。「大むかし、島には神さまがおられた。その神さまが自分の髪を剃って海に投げ込むと、髪は流れないでそのまま島になった」ことに由来するという。また、和銅年間(1300年前)、行基という高名な僧が鹿島の地に行脚なされた折、弥陀・釈迦・観音の三像を彫って西方に聳える多良岳に納められた。そのあと、左側の方に投げてできたのが黒髪山、右に向かって投げたために「御髪大明神」の島(沖ノ島)が形作られたという。
 沿岸の人たちは、島に祀られたお宮さんを、「オンガミサン」とか、「お島さん」と親しみを込めて呼んでいる。

農民思いの優しい娘

 むかし、現在の鹿島市あたりにおしまという美しい娘と祖父ちゃんの二人が住んでいた。祖父ちゃんは山で炭を焼き、おしまは野菜や米を作って暮らしていた。
 だが、この何年か雨らしい雨が降らず、畑に水を汲み上げようにも小川がカラカラに乾いてしまってどうにもならない。他人思いのおしまは瀕死の状態の村人の顔を見るのが辛かった。
「このままだと、村中が日干しになってしまう」
 村の顔役の太助爺さんがおしまに話しかけた。


かつてのおしまさん参り

「どうしたらよかでっしょうか?」
 おしまも太助爺さんに相槌を打つが、それも挨拶代わりのようなもの。写真は、多良町から有明海の沖ノ島を望む
「むかしからこんなときには生娘を生きたままで神さまにささげて助けを求めた言うがな」
「人間を生きたままでですか?」
 おしまが驚いて聞き返した。
「なに、それはむかしのひとの話じゃけん」
 爺さんは、娘盛りを迎えたおしまにそんなことをしゃべったことを後悔したのか、スタスタと帰っていった。

人身御供となって

 おしまには太助爺さんが言った「生娘を神に差し出せば・・・」の一言が耳から離れなくなった。祖父ちゃんが「どうしたのか」と青白い顔色のおしまに訊くが、まさか自分が人身御供を本気に考えているとも言えず、悩むばかりだった。
 思いつめたおしまは、祖父ちゃんの留守を見計らって家を出た。山を降りていくとそこは広々とした有明の海が。海岸を歩くこと丸一日、崖によじ登ったおしまは、潮が満ちるのを待って手を合わせ、身を投げた。


有明海漁業

 炭焼きから帰った祖父ちゃんは、おしまが夜になっても帰らないことを心配して、太助爺さんに捜索を頼んだ。だが、どんなに捜してもおしまの姿は見つからなかった。太助爺さんは、あの時変なことを口走ったことが悔やまれて仕方がなかった。

娘の遺体に雨が降る

 おしまの遺体が鹿島の浜から一里も離れた沖合いの島に打ち上げられた。発見した漁師の知らせを受けて、祖父ちゃんや太助爺さんが島に向かった。冷たくなったおしまが、岩のてっぺんで合掌したまま横たわっていた。
「なんで、おまえだけが日照りのことば背負い込まにゃならんのだ」
 祖父ちゃんが人前もかまわずに、おしまにすがって泣きじゃくった。そのときである。上空を一転黒雲が覆い、激しい雷鳴を合図に叩きつけるような大粒の雨がおしまの遺体に降り注いだ。雨はそれから三日三晩降り続き、枯れ死寸前の農作物が生き返った。


鹿島の海岸にあるおしまさん像


「これもおしまさんのおかげたいね」
 人々はただただおしまの犠牲的精神に感謝した。そして、彼女を「神」として、沖ノ島にお祭りすることにした。それが、農民のおしまに対する感謝の日となり、、その後「お島さん参り」として今日にいたっているんだと。(完)

 それにしても、最近の有明海は騒がしすぎる。例の諫早干拓のためのギロチン(大堰)のことだ。福岡・佐賀・熊本・長崎と、有明海を囲む4県の主張が、それぞれ開門・閉門にそれぞれ分かれるからだ。堰のお陰で、有明海特有の漁が激減したのだから、聞く方も納得する。一方で閉門派は、お上の指示に従って有り金をはたいて買った土地だから、魚が獲れないことなど関係ないと言いたいのだろう。
営々と築いてきた我が「伝説紀行」も、歴史と文化を抜きにしては語れないし。とにかく早く解決してほしい。(2018年07月29日)

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