江戸時代の武家屋敷(京町・坂本繁二郎生家)
今回は、久留米地方に伝わる少し軽いお話とまいりましょうか。
侍姿で城下町へ
江戸時代の中頃の話。筑後の黒土村(現久留米市)に、侍になりたくて仕方ない百姓の息子がいた。名前を正次といい、今日も母親に尻を叩かれながらあぜ道の雑草刈りに励んでいる。刈り進んでいくうちに、前の方に妙な男が倒れているのに気がついた。恐る恐る近づくと、それは二本ざしの立派な侍である。しかも完全に死んでいる。
「どうしたらよかもんじゃろか」
正次はしばし遺体のそばで考え込んだ。
「そうだ」
正次は侍が着ているものを剥ぎ取ると、自分がそれを着て刀も帯にさした。
「何の、その格好は?」
帰ってきた正次の姿を見て母親がたまげた。
「母ちゃん、これから俺は侍になるけんね。今から久留米の城下に行ってくる」
「何ば馬鹿のごたるこつば言よるとか。気でん狂うたつか」
母親は壁に立てかけてあった箒を掴むと、逃げ出す正次を追いかけた。
武家娘を助けた縁で
正次は、久留米の街を目指して駆け出した。着いたところは侍屋敷が連なる十軒屋敷の路地裏。前方で若い娘が犬に吠えられて泣いていた。
「あれあれ、かわいそうに」
人間は恐いが犬などちっとも恐れない変な性格の持ち主である正次は、犬の正面に立ってにらめっこを始めた。そんなに美男子ではない、というか、少しおかしな顔の正次に睨まれた犬は、「キャーン」とひと鳴きして逃げていった。
「危ないところを助けていただきまして、ありがとうございました」
きれいな着物を着こなしている娘の、それはかわいいこと。
「きっと偉いお武家の娘ばい」
正次はしばし我を忘れて娘に見入った。写真:京の隈(現京町)の露地
「あのー、私の顔に何かついていますか?」
美鈴と名乗る娘は、正次の態度がおかしくて笑い出した。
「よかったらうちにお立ち寄りくださいませ、すぐそこですから」
名前も侍風に
娘に案内された家は、確かに武家屋敷であった。
「正次郎殿、拙者は木下吉十郎と申す。先ほどは娘を助けていただき、かたじけない」
美鈴の父親と名乗る侍が正次に頭を下げた。いつの間にか自分の名前が侍風に代わっている。久留米に着いて、さてどうしたものかと思案中であったため、とりあえず念願の侍と対面したことに満足した。
「そんなに礼を言われると、かえってこちらが恐縮いたすでござる」
と返事したものだから、吉十郎も娘も、
「ご冗談がお上手なこと」
と言って笑い転げた。
「それでは拙者はこのへんで失礼いたしますけん」
正次が立ちかけると、
「そんなことをおっしゃらないで、何もできませんが一晩泊まっていってください」と父娘して袖を掴んだ。
美鈴の魂胆は、お礼というより、そのへんの大根役者より面白い正次の話を聞きたかったのである。
泥棒捕まえた
たらふくご馳走になって、別の部屋に通されると、そこにはフワフワの布団が敷いてあった。床の間に目をやると、鎧や槍など武具が飾ってある。価値のありそうなものばかりだ。
「俺もこげな弓で敵をやっつけてみたか」
正次は弓に矢を添えて、暗闇の庭に向かって放った。
「気持ちんよかあ。早うほんなもんの侍になって、敵ばやっつけたかね」
後先をあまり気にしないところがとり得の正次は、いつもの煎餅布団と違うフワフワ布団に寝転んだ。
「お父上、大変です。人が倒れております」
甲高い美鈴の声で目を覚ました正次が寝巻きのまま庭に出ると、そこに頬被りした男が死んでいた。
「お客人、かたじけない。咄嗟の判断で盗人を射止めていただいて」
吉十郎がまた正次に頭を下げた。何のことやらさっぱりわからずぼんやり立っていると、美鈴がわけを話した。昨夜、屋敷に泥棒が入ったのを、正次が床の間の矢で射止めたというのである。写真は、久留米城址
「いやいや、あれしきのこと」
まさか家宝の弓矢をおもちゃにして遊んでいるうちのマグレとも言えず、苦笑いで誤魔化した。
落馬して雉捕まえた
「ところで正次郎殿。そなたの腕を見込んで、折り入ってお願いがござる」
今度は吉十郎からの願いごと。殿様からいただいた栗毛が手に負えないじゃじゃ馬で、なんとか馴らして欲しいということだった。田をすく馬ならなんとかなるが、戦場を駆ける馬など聞いただけで身震いがする。だが今さら弱音も吐けずにしぶしぶ承知した。
馬場に連れて行かれて乗馬した途端、栗毛は全速力で走り出した。止める方法もわからない正次は、鬣(たてがみ)を掴んだまま生きた心地もなかった。そのうちに振り落とされて草むらにスッテンコロリン。
「お見事でござる正次郎殿。さすがは戦慣れしておられる。馬上から手づかみで雉を捕まえるなど。これで馬もおとなしくなるでしょう」
追いかけてきた吉十郎が正次の右手に持った雉を指さした。落馬した拍子に餌を啄(つい)ばんでいた雉にのしかかったものらしい。
「いやいや、たいしたことではござらぬ」
毎度の照れ隠しをしながら、早く本物の侍になりたい願望がうずいた。
化け物退治に大懸賞
「最近城内で恐ろしい化け物が出没していて、殿か正次殿に退治するようにとのお達しでござる。うまく退治できたら、大名お側つきにとりたてるとのこと」
吉十郎からの話を聞いて正次、このチャンスを逃して侍への道はないと心に決めた。
日頃怖いものに出くわしたら、気付け薬に胡椒をペロッと舐めろと母親から教わっている。正次は美鈴にねだって胡椒を袋いっぱい用意してもらった。夜も更けて、単身化け物が出るという高良山の中腹に出かけた。
「出た!」人間の数倍もある怪物が、大きな口から牙をむき出しにして、正次に迫ってきた。それから先のことは、本人もまったく覚えていない。要するに、相手を見ただけで気絶してしまったというわけ。
朝方目が醒めて、隣に大木ほどの化け物が横たわっているのに気がついた。正次などひと呑みしそうな口から赤いよだれを流しながら。化け物は、気絶した正次が腰にぶら下げていた袋を開け、真っ赤な食べ物を一口に飲み込んでしまったのである。それが飛び切り辛い胡椒だとも知らずに。
「今だ!」正次は持っている刀で一突きした。
助けた娘が新妻に
「よくやった、褒美をとらす」
お城に上がった正次は、殿様から持ちきれないほどの金品をいただいた上に、重役の椅子も保証された。吉十郎の家に帰ると、座敷には美鈴が花嫁姿で畏まっている。何ごとかと、紋付袴の吉十郎に訊くと、「何を照れておられる、婿殿」ときた。三々九度の盃も終えて、正次と美鈴は晴れて夫婦に。座敷に入ると、嫁入り布団の上に純白の絹の襦袢を真っ赤な帯で締めた美鈴が三つ指をついて出迎えた。
武家の娘まで嫁さんにして、これでれっきとした侍になれた。そこで正次が美鈴に、「何だか夢ば見とるごたる。すまぬが、わしの頬っぺたば抓ってくれんの」と頼んだ。
「だんな様のお頼みとあれば…」
美鈴が正次の頬を力いっぱい捻った。
「いた、いた、痛い!」。正次が叫んだ。
「いた、いた、痛い!」
「何がそげん痛かつか?」
隣に寝ているはずの女は、美鈴ではなく年老いた母親だった。
「美鈴は、…俺の大事な花嫁はいかがいたした、つじゃろか?」
寝ぼけ眼の正次がキョロキョロすると、
「馬鹿たれが、また、でけもせんこつば夢見よったつじゃろ」
毎度のことながら、母親のうんざり顔。(完)
いつの時代も、身にあまる願望を持ちたがるのが人間の性だ。政治家も学者も社長さんも、そして我々貧しい庶民も、身の丈にあった希望さえ維持しておれば、ほどほどの良い目には会えるものなのに。