伝説紀行 慈恩の滝 日田市天瀬


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第102話 2003年03月16日版
再編:
2018.08.12 2019.04.14
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

大蛇の命
慈恩の滝由来

大分県日田市天瀬町


お坊さんが大蛇の命を救った滝

JR久大線を走る「特急ゆふいんの森号」が、途中スピードを落として車窓から見える滝を案内してくれる場所がある。天瀬町と玖珠町の境界線上に位置する「慈恩の滝」のこと。いつ見ても変らぬ美しさに、取材の行き帰りに見惚れること当たり前になった。五馬高原を水源とする山浦川が、筑後川支流の玖珠川と合流するあたりだ。
 滝壺から吐き出された豊富な水は、天瀬温泉を駆け抜けて天領日田へと急行する。

収獲前の麦が全滅

 千数百年もむかし、玖珠川(筑後川上流)のほとりの早水(そうず)村に住む与一が、ため息混じりに麦畑を見つめていた。秋に蒔いた麦の種が、やっと花を咲かせて稔ったばかりだというのに、何者かに麦畑を荒らされて全滅したからだ。だが、犯人が誰なのか誰にも見当がつかない。
 与一は夜通しで畑を見張ることにした。5日目の晩、“犯人”が姿を現した。闇夜のせいで姿をはっきり見ることはできないが、あれは人間ではない。体長が2丈(6b)もある大蛇のようだ。帯のように体を引きずって進む怪物は、玖珠川からゆっくりと陸(おか)に上がり与一の畑に入った。と思ったら、全身をくねらせるようにしてのた打ち回った。恐さで怪物を追い払うこともできず、なりゆきを見守るしかなかった。

旅の僧が乗り出した

 ある日、良勘という若い僧が早水の村を通りかかった。男どもが、眉を逆立てて大蛇対策を思案中のこと。
「大蛇・・・?」
「大蛇が収穫前の大事な麦畑をメチャクチャにしてしまうので、どうしたらよいもんかと話しているところです」
「その大蛇は、どこにおるのかな?」
「どうやら、下の滝壷が棲家らしかです」


慈恩の滝上の田んぼ

 滝壷に大蛇が棲むことは何かの書物で読んだことがある。だが本当にそんな怪物がこの世に生息するとは、さすがの良勘和尚にも信じられないことだった。
「滝の水を抜いて、大蛇ば日干しにしようと思うとります」
 頭らしい男が、対策案を示した。

「それは無茶だ。大蛇だって仏からいただいた命で生きておるのじゃから」
「じゃあ、どうすりゃあよかとですか? お坊さん」
 百姓たちは、虚しさに堪えながら良勘に食い下がった。

滝壺の怪物とは

「愚僧にお任せあれ」
 良勘和尚は、早水の農民から一任を取り付けると、早速轟音を立てて流れ落ちる滝の裏側にまわって(むしろ)を敷いた後読経を始めた。滝から弾き飛ばされた飛沫が、良勘の体中を濡らした。
「水底におる大蛇よ、おまえさんにも事情があってのことだろう。よかったらわしにわかるように話してはくれまいか」
 良勘は、滝壺の中の大蛇に語りかけた。読経を始めて10日目の夜、滝壷の中央から怪しげな光を放って、巨大な大蛇が浮かび上がった。何だか様子が変だ。両の目は開いているがうつろである。のっそり水から上がってくる姿は、死を直前にした病人のように痩せ細っていた。

「どうしたのじゃ?」
 良勘が大蛇に近づくと、体全体から異様な匂いが。ただごとではない。良勘が更に大蛇の体に接近して驚いた。体中がかきむしったように白くなり、鱗もほとんど剥がれて皮膚の一部が腐りかけている。

大蛇の天敵

「何だ、こりゃ?」
 大蛇の体中に無数の虫がたかっていた。寄生虫である。畑で暴れていたのも、体中がくて、土を皮膚に塗りつけることで耐えていたのだった。
「可哀想に、辛かろう」
 良勘は、大蛇の体を擦ってやった。
「南無、観世音菩薩。何卒この生き物の命を助けたまえ」
 その間、大蛇は気持ちよさそうに大きな瞼をつぶったまま。

 それからさらに10日が過ぎると、大蛇の体から寄生虫が退散し、両の目にも精気が戻ってきた。そして、良勘に礼を言うように体を躍らせながら、再び滝壷の水中に消えていった。
「よかった、これでおまえさんらが苦労して作った麦畑も荒らされずにすむじゃろう」
 良勘が満足そうに滝壷に見入っているとき、与一が走り寄ってきた。

慈恩寺という寺は今何処?

翌年から、麦が稔っても大蛇が這い出すことはなく、豊作が続くようになった。農民も大変喜んで、僧のために寺を寄贈した。寺の名前も、僧への恩返しの気持ちをこめて「慈恩寺」と名づけた。
 しかし、この慈恩寺は戦国時代に大友宗麟によって焼き討ちにあい、今では滝の名前が残るだけ。(完)

 大雨の直後に立ち寄ったせいか、慈恩の滝はものすごい音をとどろかせ、四方にしぶきを散らしながら滝壺に落ちていた。その様は、周囲の濃い緑とあいまって、額縁の中の名画を観ているよう。慈恩の滝もまた、自然が恵んでくれた筑後川の財産なのである。

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