伝説紀行 蝉丸塔 久留米市


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第99話 03年02月23日版
再編:2019.08.25
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

御井寺の縁切り塔

九州の蝉丸塔

福岡県久留米市


御井寺の蝉丸塔(2018.04.04撮影)

「嫌いな男と縁を切りたい」と願う善女にとって、お参りするのに格好の場所がある。それが久留米高良山の麓の御井寺に建つ蝉丸塔(せみまるとう)のこと。
 蝉丸とは、室町時代の世阿弥(ぜあみ)によって創作された謡曲「蝉丸」に登場するシテ(主人公のこと)をいう。蝉丸は、京の都で名を売った盲目の琵琶法師であり、百人一首にも出てくる有名な歌がある。

世阿弥:室町時代の能役者・能作者。

これやこの/ゆくもかえるも/わかれては/知るも知らぬも/逢坂の関

 そんな都の芸人が、何の縁あって遥か久留米の高良山(高良神を祀る山)に出没したのか。

上品な遊女

 時は平安時代。高良山の麓の色町で三人の遊女が鼻にかかった甘え声で、客を呼んでいた。彼女らのターゲットは、筑後一の宮の高良玉垂神社にお参りする男衆である。小夜、とも、雪の三人姉妹の遊女は、よく見るとどこか垢抜けしている。筑後川の下流・城島からお参りにきた卯吉が小夜に手を引っ張られて座敷に上がった。
「こんなことを尋ねて悪いとは思うが・・・」
 ひととおりの用事が済んで、卯吉が小夜の掌を撫でながら囁くように訊いた。
「あんたあたしの出所を知りたいんだね」
 何人もの客から同じことを訊かれたと見えて、小夜は先回りした。
「顔はきれいだし、言葉も上品。それに・・・」


写真:現在の御井寺

「あたしのサービスがうまいってことかい?」
「図星だ。よかったら教えてくれないか。少しばかりならはずんでもいいぜ」

 卯吉の真剣な眼差しをまともに受けて、小夜が語り出した。

遊女が法師に惚れた

「5年前だったかね」小夜と二人の妹は、共通の恋人蝉丸を慕って京の都から遥々九州の久留米までやってきた。蝉丸は盲目の琵琶法師だったが、顔も声も人並みはずれていて、京の女たちの憧れの的だった。彼は、公家など高貴な方の宴席にも引く手あまただった。
そんな蝉丸について、ある客からとんでもない噂を聞いてしまった。蝉丸とは、今でこそしがない芸人に身を落としているが、実は皇子(天皇の子)として生を受けた。生来の盲目で、天皇が付き人をつけて、逢坂山に捨てさせたものだと言うのだ。

「おかわいそうに・・・」
 親からいただいた美貌と芸で座敷の人気者だった姉妹は、ある夜、盲目の優男に抱かれてからというもの、同情も絡めて蝉丸の虜になってしまった。
 この夜の小夜は、自分でも訳がわからないくらいに床の上で燃えた。妹たちも、姉から蝉丸のことを聞いて、次々に体を委ねた。

高良山の座頭に

だが、この時代、盲目の琵琶法師が女の相手をすること自体がご法度(はっと)であった。軽い気持ちがお上に知れるところとなり、蝉丸に遊女を世話した公家は直ちに処刑。蝉丸は所払いとなった。トボトボと都を離れるところに、小夜・とも・雪の三姉妹が旅姿で追いかけてきた。

「あたしらが蝉丸さまをお守りします。ですから、何処へでも連れて行ってください」
 蝉丸が流れた先は、筑後国の久留米であった。当時久留米の高良山には、盲目の芸人で、「平家座頭」と「仏説座頭」がいた。「平家」は高良神社で、「仏説」は御井寺の支配下にあった。

「平家座頭」とは、声が良くて「・・・所業無情のひびきあり」と琵琶を弾きながら正確に壇ノ浦を歌える者だけに許された資格である。資格をもてば、上級の客の宴に呼ばれ、仲間に羨ましがられるほどのお手当てを受けることもできる。


旧御井寺跡

 一方「仏説座頭」は、日頃は筑後一円の村々に散らばっていて、各家の(樋の神)をお祭りすることを仕事にしている。彼らは、家々を回り「地神教」なるお経をあげてお布施を貰う。琵琶を弾き壇ノ浦も語るがそれはそんなに正確で厳しいことを要求されるわけでもない。

金の切れ目が・・・

京の都から流されてきた蝉丸は、本場で鍛えた喉と頭のよさを買われて、「平家座頭」に組み入れられた。だが、銭金にルーズな蝉丸は、稼いだ金を賭博などにつぎ込み、食い扶持は小夜たち姉妹の懐を頼りにした。


縁切り祈願のためか、削られた蝉丸塔

 そのうちに姉妹の持ち金も底を突いた。悪いことは重なるもの。都から蝉丸のもとに「罪を許すによって即刻帰還せよ」の命令が届いた。田舎暮らしにうんざりしていた蝉丸は、天にも昇る気持ちで三姉妹を置き去りにしたまま、さっさと久留米から消えた。
 残された三姉妹は、途方に暮れた。蝉丸を追いかけようにも路銀がない。下品な田舎男にも、プライドを捨てて身を売った。客からすれば、これまでの遊女と違う品の良さとテクニックでたちまち人気を独占してしまった。
「そうだったのかい。道理でここらあたりの遊び女とは一味違うと思ったぜ。それにしても蝉丸って色男、絶対許せねえ」
 卯吉が一人力んで額から湯気を発している光景を、小夜は「男って単純ね」と言わんばかりにニコニコして眺めていた。
(完)

男と切れたければ御井寺へ

蝉丸塔」は、九州自動車道を潜ったあたりの御井寺境内に建てられていた。もともとは近くの料亭水明荘の中にあったものを、この寺に移し替えたものだとか。塔が民間信仰のシンボルとなったのは、蝉丸と残された遊女の悲劇かららしい。塔の欠片を粉にして飲み込むと「縁切りの」願いが叶うという。塔を覗き見たら、なるほどあちこちに削り取られたあとがある。いまでもそのようなことを信じる人がいるのかどうかは確めていない。


面影残る高良山門前の繁華街(2018.04.04撮影)


 塔に刻まれた
「逢坂の嵐の風は寒けれど、ゆくへ知らねばわびつつぞ寝る」という古今和歌集の歌も、蝉丸の作だといわれる。
 本文中に記した、高良山を本拠として宗教活動をした「平家座頭」「仏説座頭」、それに盲目の女性が祭司をしながら春を売る遊女(瞽・瞽女・御前)などについては、蝉丸伝説だけではどうも説得力に乏しいような気もする。いずれにせよ、彼・彼女等のシンボル的存在として、後の世になって誰かが高良山に蝉丸を登場させたのだろうか。肝心の「蝉丸塔」だが、これには寛政年間の作と読める文字が確認できるそうな。

 
仏説座頭の本拠があったといわれる放生池の東側の竹薮は、そんな歴史など知らぬげに、間もなく訪れる筍の季節を待つように風に揺れていた。

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