伝説紀行 小野川才吉伝 久留米市善導寺
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僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。 |
郷土が育てた名力士 小野川才吉伝
福岡県久留米市
筑後川流域には、歴史に残る名力士がウジャウジャいる。本「伝説紀行」で既にお伝えした不敗の横綱梅ヶ谷藤太郎(本名:小江藤太郎)は朝倉郡杷木町梅ヶ谷の出身。「雲龍型」の雲龍久吉は山門郡大和町で生まれた。もう一人、やはり梅ヶ谷と同時代に土俵を沸かせた力士に久留米市善導寺出身の小野川才助がいた。 体はでかいが引っ込み思案 小野川才助は、筑後国山本郡の高畑村、現在の久留米市善道寺町で、森光五平とミヨの間に生まれた。善導寺には、承元2年(1208)、筑後在国司草野氏の保護を受けて聖光上人が開山したという浄土宗鎮西本山がある。 臆病者 そんな才助に転機が訪れたのは19歳になってからであった。近くの天満宮で奉納相撲が催されたときのこと。 転機 「そこのでっかいの、おまえも相撲をとれ!」 触っただけで勝っちゃった やがて、奉納相撲の番付は前頭へと移り、東西に分かれて勝ち抜きの試合となった。真っ先に東方から呼び出されたのが才助である。相手は自分より10歳も歳上に見える男。赤ら顔で眉が逆立っていていかにも強そう。 「はっけよい、のこった」 才助は行司の掛け声で仕方なく立ち上がって腕を伸ばした。前を見て首をひねった。目の前にあの強そうな男がいない。ポンと才助に突かれて既に土俵の外にすっ飛んでいたのだ。二人目は前の男より少しばかり強かった。と言うより、体が小さい分動き回られて目が回ってしまい、才助は自分から土俵に手をついてしまった。写真は、善導寺から眺める耳納連山 反対した父からの手紙 才助が19歳に成長した。そのとき身長6尺3寸というからメートル法に直すと2b7a。あの奉納相撲以来、体が大きいことへのコンプレックスは消えていた。むしろ遊び仲間から力持ちを羨ましがられて得意になるほどだった。そして、あれだけ嫌いだった格闘技が好きになり、あちこちで開かれる大会にも進んで出場して優勝を独り占めした。 久留米市の東端に構える浄土宗九州総本山善導寺を訪ねたのは、秋も深まった昨年の11月だった。静寂な境内に天然記念物の大楠が枝を張るすぐ近くに「小野川才助の碑」が立っていた。歴代の善導寺上人の墓のすぐ隣にである。威風堂々の石碑であった。 |