伝説紀行 小野川才吉伝 久留米市善導寺


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第94話 03年01月19日版
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。
郷土が育てた名力士
小野川才吉伝


07.04.22

福岡県久留米市


二代目小野川才助の墓

 筑後川流域には、歴史に残る名力士がウジャウジャいる。本「伝説紀行」で既にお伝えした不敗の横綱梅ヶ谷藤太郎(本名:小江藤太郎)朝倉郡杷木町梅ヶ谷の出身。「雲龍型」の雲龍久吉は山門郡大和町で生まれた。もう一人、やはり梅ヶ谷と同時代に土俵を沸かせた力士に久留米市善導寺出身の小野川才助がいた。

体はでかいが引っ込み思案

 小野川才助は、筑後国山本郡の高畑村、現在の久留米市善道寺町で、森光五平とミヨの間に生まれた。善導寺には、承元2年(1208)、筑後在国司草野氏の保護を受けて聖光上人が開山したという浄土宗鎮西本山がある。
「才助! 才助!」
 母のミヨが善導寺中に響くような大きな声で息子を呼んでいる。
「母ちゃん、そげな大っか声ば出さんちゃ聞こえとるが」
 納屋の中からのっそり現れた才助。10歳になったばかりだというに背丈は大人なみの1b60a、体重は60`を超えている。遊び相手も少なく、外を歩いていても「あんたいくつ?」と訊かれるのが嫌で、いつも裏の納屋に閉じこもってばかりいた。
 後に相撲界に君臨する小野川才助は、子供のときから体は大人なみだったが、一人息子のせいか甘えん坊で、人前に出るのを極端に嫌う子供だった。そんな息子をミヨは何とか世の中に通じる人間に育てたいと焦っていた。
 一方、父の五平は「そのうち何とかなるさ」とのんきなもの。お寺の世話役などして忙しいこともあってか、息子のにはいっこうに関心を示さなかった。

臆病者

 そんな才助に転機が訪れたのは19歳になってからであった。近くの天満宮で奉納相撲が催されたときのこと。
「観にいこう」とミヨが誘っても、「そんなもんおもしろうなか」と言って立ち上がろうとしない。
「お前、耳納の兜山に登りたかち言うとったろうが。母ちゃんといっしょに相撲観にいくなら、明日兜山に連れて行くが」
 そこでのっそり立ち上がった才助。その時背丈は2bに届きそうな勢い。才助はそんな巨人に生んだ両親を恨んでいた。あるとき隣の爺ちゃんに言われたことが耳に残っていて仕方がない。
「あのくさい、ちょっとでん(少しでも)こもうなりたかなら、うんと運動ばせにゃならん。毎日兜山ば往復したら体が締まって小さくなるがね」と。
 それを聞いて、何とか兜山を目指そうとするが、山の中で迷子になったらどうしよう、神隠しにあったら二度と家に帰れなくなる。そんなことばかり考えて、なかなか足を前に踏み出せなかった。

 そこへ母親からの誘い水である。相撲場に行きさえすれば、あした母ちゃんが兜山に連れて行ってくれると言うから、天満宮に行くことを承知した。もちろん、ミヨの計略である。相撲場では、村の内外から力自慢が集って熱気ムンムンだった。

転機

「そこのでっかいの、おまえも相撲をとれ!」
 突然耳元で叫ばれた。紋付姿がよく似合う大きな大人である。
「俺は相撲取り候補を探して回っている都灘弥吉てんだ。お前の体なら今土俵に上がっても勝てるぜ」
 どうせお世辞とわかっている。それに他人と格闘するような野蛮なことは嫌いだし、生まれてこの方相撲なんてとったことがない。だが都灘は有無を言わさず才助の両腕を引っ張った。その力の強いこと。
「母ちゃん、助けてくれ。俺は相撲なんか大嫌いじゃ」
 才助が泣きべそかいてもミヨは知らん振り。むしろニヤニヤしている。都灘に土俵のそばまで連れて行かれた才助は、強引に身に付けたものを剥がされて(ふんどし)を締めさせられた。泣きだしそうな才助に同情する村の者は一人もいなかった。

触っただけで勝っちゃった

やがて、奉納相撲の番付は前頭へと移り、東西に分かれて勝ち抜きの試合となった。真っ先に東方から呼び出されたのが才助である。相手は自分より10歳も歳上に見える男。赤ら顔で眉が逆立っていていかにも強そう。

「はっけよい、のこった」 才助は行司の掛け声で仕方なく立ち上がって腕を伸ばした。前を見て首をひねった。目の前にあの強そうな男がいない。ポンと才助に突かれて既に土俵の外にすっ飛んでいたのだ。二人目は前の男より少しばかり強かった。と言うより、体が小さい分動き回られて目が回ってしまい、才助は自分から土俵に手をついてしまった。写真は、善導寺から眺める耳納連山
 この一番の相撲が森光才助の人生を決定付けた。

反対した父からの手紙

才助が19歳に成長した。そのとき身長6尺3寸というからメートル法に直すと2b7a。あの奉納相撲以来、体が大きいことへのコンプレックスは消えていた。むしろ遊び仲間から力持ちを羨ましがられて得意になるほどだった。そして、あれだけ嫌いだった格闘技が好きになり、あちこちで開かれる大会にも進んで出場して優勝を独り占めした。
 そんなときあの時の都灘がやってきた。父五平は反対したが、母ミヨが熱心に夫を口説いて、いよいよ名力士として名高い都灘弥之助部屋に向かって旅立つことになった。
 渡し舟で筑後川向こう岸の古賀茶屋まで母ミヨが送っていった。ミヨは涙も見せず、別れ際に才助の懐に紙切れを差し込んだ。それはあれほど角界入りに反対した父五平からの(はなむけ)であった。

「錦を着て故郷に帰るまでには長い苦労を積まなければなるまい。力の限り励め。父は何よりもおまえの成功を祈っている」
 才助は親方から「大岬大五郎という立派な名前をいただき稽古に励んだ。弘化2、京都に行き頭取都藤としてますます強くなった。
 その後、嘉永2(1849)2月、江戸に上って日本頭取追手風喜三郎(先代小野川喜三郎)の部屋に入った。その後阿波の大名に見込まれて禄を受け、「虹が嶽曽間衛門」と改名した。
 そして、安政2 (1855) 年には、久留米藩主の有馬頼咸(ありまよりしげ)からもお声がかかり十人扶持を与えられた。二代目小野川を名乗ったのはその頃である。ときに彼の番付は小結であった。それから間もなくして関脇に昇進した。その時体重は36貫目(135`)の堂々たる風格。
 文久2年(1862)11月の回向院(えこういん・現在両国国技館のあるところ)大相撲大角力では、同じ筑後出身の雲龍(筑後国山門郡出身)が東の大関に、小野川が西の関脇に位置し、元治元年(1864)10月の大相撲でも同じ対立となった。
 明治2年(1869)に日の下開山・大日本頭取(横綱)の免許を受けた。小野川才助の偉才はただ強かったというだけではない。彼の指導力に憧れて新弟子志望者があとを絶たず、弟子だけでも百数十人。押しも押されもせぬ日本一の力士になったのである。
 明治26年(1895)年、弟子一同はふるさと津遊川(現善道寺町津遊川)の道端に「日本第一力士小野川之碑」と刻した石碑を建てた。その後、石碑は現在の善導寺境内に移される。(完)

久留米市の東端に構える浄土宗九州総本山善導寺を訪ねたのは、秋も深まった昨年の11月だった。静寂な境内に天然記念物の大楠が枝を張るすぐ近くに「小野川才助の碑」が立っていた。歴代の善導寺上人の墓のすぐ隣にである。威風堂々の石碑であった。

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