伝説紀行 恵利堰と草野又六 大刀洗町
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僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。 |
耳納を崩して堰き止めよ 福岡県大刀洗町 江戸時代、筑後川に4つの堰が築かれた。上流から浮羽町の「袋野用水」。浮羽郡吉井町の「大石・長野大堰」。そして朝倉町に築かれた「山田井堰」と「恵利堰」がそれである。何れも堰(用水路)築造から290年〜350年の月日を経ているが、農民にとっては今日もなお命綱である。 下級武士と庄屋 宝永7(1710)年。筑後川の北岸は記録的な干ばつに襲われた。そのため、筑後川中流を領域とする久留米藩も上納米が見込めず困っていた。
「やっぱり大川(筑後川)に堰ば築いて水を引くってのは無理な相談ですかね?」 計画書 「我慢も限界ですばい」
願書の内容は、恵利の瀬をせき止め、そこから大川の水を引き込み、西に1200間(2160m)の溝をつくり、江戸村(現大刀洗町)から枝溝を通じて北野方面の農業用水を供給しようという壮大な計画であった。この工事が無事完成した暁の皮算用として、@現在の田畑800町歩(800ha)に加え、新たに700町歩の新田が可能となる。Aこれまで上納米にも不足していたが、米大豆差し引き1ヵ年分が増産でき、米の増産は7000俵を見込む、などであった。そしてかかる費用は藩から借り受け、人夫はすべて郡役(自前)を前提とした計画書であった。
堰の長さは300米 そこで、土木技術に長ける草野又六に出番が回ってきた。普請奉行野村宗之丞の配下について実質総監督(普請総裁判)に任命されたのだ。又六はかねて構想していたように高山六右衛門を「御用手伝御用聞」、つまり自分の右腕として起用した。残りの庄屋にも金勘定など重要な役割を持たせた。肝心の人夫は村総出の3500人体勢である。まさに、生きるか死ぬかの大勝負であった。
草野又六と庄屋たちは現場近くに合宿して、農民らの指導に当った。なにせ筑後川の幅は170間(310m)と長い。その上この付近の流れは速くて水量も多く、難工事は宿命みたいなものであった。俵に詰め込んだ石を投げ込んでも、木の葉のようにすぐ流されてしまう。工事は遅々として進捗しなかった。一方溝堀りの方は農民が得意とするところ。見る見るうちにその距離を伸ばしていった。 又六よ、あの耳納を見よ 「草野さまはどこへ行かれた?」
「又六、おまえはそこで何をしておる!」
飛び起きた又六が母の指の先に目をやった。そこには耳納連山がでんと居座っていた。 ボロ舟集め 草野又六はすぐさま工事現場に戻った。彼は工事をいったん中断して村の内外からボロ舟と無縁の墓石を集めさせた。手のすいたものは夜通しで俵を編んだ。それは年末から正徳3年(1713年)の年明けまで続いた。草野又六の最後の賭けであった。
そこで又六の新たな作戦が開始される。床島から取り入れられた水は、途中佐田川と交差してまっすぐ西方に向かうのだが、不足する水量を補うために佐田川に杭を打って水量を上げ、用水路に分水しようと言うのである。 水田倍増 「よくやりましたなあ、草野さま」 久しぶりに床島堰の岸辺に立った。石を積み上げて築いた堰(現在は鉄とセメント)と、そこから流れ出す用水路は、いくつもの河川と交差しながら真っ直ぐ西に流れ、2.4キロ先の大堰神社脇の「江戸前」地区で、無数の支線となって筑後川北岸の穀倉地帯に配水されている。その仕組みたるや、観察すればするほどこちらの頭がこんがらがる。290年前の草野又六や高山六右衛門の知恵と苦労が偲ばれる。特に気にいったのが、「水田で使われた水は再び筑後川に返される」という大堰公園の掲示板説明であった。 |