伝説紀行 恵利堰と草野又六 大刀洗町


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第90話 2002年12月14日版
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

耳納を崩して堰き止めよ
草野又六伝

福岡県大刀洗町

 
大刀洗と田主丸を結ぶ恵利堰

 江戸時代、筑後川には4つの堰が築かれた。上流から浮羽町の「袋野用水」。浮羽郡吉井・田主丸町の「大石・長野大堰」。そして朝倉町に築かれた「山田井堰」と「恵利堰」がそれである。何れも堰(用水路)築造から290年〜350年の月日を経ているが、農民にとって今日もなお命綱である。
 このうち、第69話では大石・長野用水を紹介した。今回の草野又六もまた第11話で紹介した「床島堰の少女おさよ」と共通する。

下級武士と庄屋

 宝永7(1710)年。筑後川の北岸は記録的な干ばつに襲われた。そのため、筑後川中流を領域とする久留米藩も上納米が見込めず困っていた。
 そんなクソ暑い昼下がりである。草野又六の屋敷に鏡村の庄屋高山六右衛門が訪ねてきた。
「どうした? 今にも俺に噛みつきそうな顔をして」
 又六は、自分より若い六右衛門をからかうようにして迎えた。
「どうもこうもなかですよ、こげん雨が降らじゃったら…。村中みんな飢え死ですたい」
 人一倍正義感の強い六右衛門である。何とかして欲しいと掛け合いにきたのだった。
 六右衛門が住む鏡村は、筑紫山地を水源とする佐田川と小石原川が筑後川に流れ込むあたりにある。干割れした田んぼにはどじょうやタニシの死骸が天日にさらされていると嘆いた。
「やっぱり大川(筑後川)に堰を築いて水を引くってのは無理な相談ですかね?」写真:桂川の水門
 40年前には上流の袋野用水(現浮羽町)が筑後川をせき止めて水を引き込み、豊かな水田ができあがった。彼らにできたことがここではどうしてできないのか。
「筑前の者たちさえ了承してくれりゃ簡単なことだが…」
 佐田川や小石原川の上流はすべて福岡藩領である。久留米側が二つの河口をせき止めれば、大雨が降ればたちまち洪水の危険にさらされるのが筑前側である。久留米藩も滅多な強硬手段はとれない。

計画書

「我慢も限界ですばい」
 六右衛門は、必死で藩の行動開始を訴えた。「それなら」ということで、又六は近隣の庄屋が連判状を作って来るよう命じた。
 六右衛門は駆け回った。高島村の鹿毛甚右衛門、稲数村の中垣清右衛門、八重亀村の秋山新左衛門(いずれも現在の北野町)なども加わって、河北の庄屋たちが本気になった。そして藩の郡奉行に「堰溝築開願書」を提出した。宝永7年(1710年)10月20日のことであった。写真:旧久留米城三の丸濠跡
 願書の内容は、恵利の瀬をせき止め、そこから大川の水を引き込み、西に1200間(2160m)の溝をつくり、江戸村(現大刀洗町)から枝溝を通じて北野方面の農業用水を供給しようという壮大な計画であった。この工事が無事完成した暁の皮算用として、@現在の田畑800町歩(800ha)に加え、新たに700町歩の新田が可能となる。Aこれまで上納米にも不足していたが、米大豆差し引き1ヵ年分が増産でき、米の増産は7000俵を見込む、などであった。そしてかかる費用は藩から借り受け、人夫はすべて郡役(自前)を前提とした計画書であった。
 久留米藩にとってこんなにおいしい話はない。郡奉行を通じて計画書を見た藩主則維公が喜んだ。その時、筑前領とのトラブルの心配は後回しにされた。

堰の長さは300米

 そこで、土木技術に長ける草野又六に出番が回ってきた。普請奉行野村宗之丞の配下について実質総監督(普請総裁判)に任命されたのだ。又六はかねて構想していたように高山六右衛門を「御用手伝御用聞」、つまり自分の右腕として起用した。残りの庄屋にも金勘定など重要な役割を持たせた。肝心の人夫は村総出の3500人体勢である。まさに、生きるか死ぬかの大勝負であった。
 草野又六と庄屋たちは現場近くに合宿して、指導に当った。なにせ筑後川の幅は170間(310m)と長い。その上この付近の流れは速くて水量も多く、難工事は宿命みたいなものであった。俵に詰め込んだ石を投げ込んでも、木の葉のようにすぐ流されてしまう。工事は遅々として進捗しなかった。一方溝堀りの方は農民が得意とするところ。見る見るうちにその距離を伸ばしていった。

又六よ、あの耳納を見よ

「草野さまはどこへ行かれた?」
 六右衛門が尋ねるが、誰も知らない。実は又六、その時大橋村の実家に戻って不貞寝(ふてね)を決め込んでいた。「自分は土木技術の天才」と自認していたが、ここにきて自信を喪失してしまった。杭を打って重い石を積めば流れをせき止められると見込んだものの、積み上げた石は木の葉のごとく流されてしまい、いっしょに自尊心まで吹っ飛んでしまった。あちこちからかき集めた岩石も残り少ない。打つ手を失った又六は、頭を冷やすために母親の元に逃げ込んだ。


耳納連山


「又六、おまえはそこで何をしておる!」
 部屋に入ってきた又六の実母殿。
「すっかり自信を無くしました。川をせき止める石がないのです」
「馬鹿者、何千人もの百姓衆がおまえの次なる指揮を待っておるというのに」
「ですが…、思ったより水の流れが強くて」
 母親は寝そべっている息子の枕を蹴飛ばした。
「又六よ、あれを見よ」
 飛び起きた又六が母の指の先に目をやった。そこには耳納連山がでんと居座っていた。
「あの山が何か?」(写真:大堰神社)
「まだわからぬのか。おまえは今、筑後川をせき止める石がないと言った。そうではなかろう。あの耳納の山はすべて岩石でできておる。山を削れば、たかが170間の川が何ほどのものぞ」
 無茶を言う母親ではあった。

ボロ舟集め

草野又六はすぐさま工事現場に戻った。彼は工事をいったん中断して村の内外からボロ舟と無縁の墓石を集めさせた。手のすいたものは夜通しで俵を編んだ。それは年末から正徳3年(1713年)の年明けまで続いた。草野又六の最後の賭けであった。
 2月も晦日を迎えて、3500人の人夫が川岸に集められた。六右衛門は俵に詰めた石をボロ舟に積ませ、川中央で転覆させた。舟と石が流れに逆らって堰の基礎を築いていった。その時川底に投げ込まれた俵の数は、50万個にも及んだという。

 せき止められた大川の水が溝に流れこんだ。そこまではすべて順調だった。が、急いで掘った溝は貧弱で漏水が激しく、水はなかなか水門の江戸村(現大刀洗町冨多地区=床島用水路から江戸前水門を経て受水したことからその名がついた)に届かなかった。
 そこで又六の新たな作戦が開始される。床島から取り入れられた水は、途中佐田川と交差してまっすぐ西方に向かうのだが、不足する水量を補うために佐田川に杭を打って水量を上げ、用水路に分水しようと言うのである。
写真:床島水道
 その後も又六の陣頭指揮で修復が繰り返され、間もなく床島堰と2400bの用水路が完成し、周辺38か村の田んぼに灌漑用水が行き渡った。筑後川の北方約2000fの田が潤い(現在はそれが3000haに拡大)、久留米藩は幕府に対して「2年間で新田1万石を開発」と報告した。

水田倍増

「よくやりましたなあ、草野さま」
 高山六右衛門は眼下の恵利大堰を眺めながら目頭を拭いた。
「おまえたち庄屋と百姓の力があったればこそだ」
「ところで、その後お母上のご機嫌はいかがです?」
 六右衛門が、皮肉たっぷりに又六をうかがった。
「それを言うなって。おふくろはいくつになってもおふくろなんだから。怖ろしいのだよ。耳納の山を削って筑後川をせき止めろ、なんてとんでもないことを言うんだからな。だが、あの一言がなかったら、俺は現場から逃げ出したままだったかも知れんな」
「そうなれば、草野さまは今ごろ藩を追われて流浪の身ですか」
「この野郎、言わせておけば」
 草野又六と高山六右衛門のコンビは、まだまだ続きそうである。又六と近隣の庄屋らは、後に神として江戸前地区の大堰神社に祀られることになった。【完】

 久しぶりに床島堰の岸辺に立った。石を積み上げて築いた堰(現在は鉄とセメント)と、そこから流れ出す用水路は、いくつもの河川と交差しながら真っ直ぐ西に流れ、2.4キロ先の大堰神社脇の「江戸前」地区で、無数の支線となって筑後川北岸の穀倉地帯に配水されている。その仕組みたるや、観察すればするほどこちらの頭がこんがらがる。290年前の草野又六や高山六右衛門の知恵と苦労が偲ばれる。特に気にいったのが、「水田で使われた水は再び筑後川に返される」という大堰公園の掲示板説明であった。
 たった一つ気に食わないのは、最近建てられた記念碑に、やっぱり地元出身の大物代議士の名前が目立つように刻まれていたことだった。

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