伝説 五人庄屋 うきは市吉井


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第69話 2002年07月21日版
再編:2019.03.10
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

五人庄屋

福岡県うきは市吉井町

 
大石堰そばの水神社

長野神社 
  
大石堰の説明板

 浮羽郡吉井町で歴史上の人物はと問えば、大方の人は「五人庄屋」の名前を上げる。「五人庄屋」とは、筑後川南岸の村を仕切る庄屋たちのことである。大むかしからこの地方は、川の水面が低くて農業用水とすることが困難な台地であった。農民はわずかばかりの湿地を求めて畑を耕し、食うや食わずの生活に堪えなければならなかった。

眼下の川は役立たず

 ときは寛文(1660〜)年間のはじめ頃。この年は雨らしい雨も降らず、井戸も枯れて、人々は飲み水にすら不自由するありさまであった。そんなとき、筑後川の岸辺を一人の男が歩いてきた。男は腰に一本だけ長い刀をさし、竹で作った水筒をぶら下げている。どう見ても、旅を楽しんでいる浪人風であった。
 浪人風の男が高田村にさしかかったとき、ポロポロの土を手のひらにのせて、二人の農夫が呟いている。
「ひどかな。これじゃことしの収穫は駄目ばい」
 男は、黙って二人の横に座った。彼らは筑後川のすぐ南岸に住む作兵衛と徳八であった。

「雨は降らんし、収穫がないとくりゃ、親子して首をるしかなかですもんね。きのうも隣りの定吉親子がおらんごとなった。夜逃げですたい。向こうの村では飢え死にする者も出ちょるげな」
「あん水さえ使えりゃな」
 二人はすぐ目の下を流れる筑後川を恨めしそうに眺めていた。このあたりの村は、大むかしから堆積した土砂で造られた堤防が川と耕地を完全に遮断しており、農業用水を引き込むことは不可能であった。

五人の庄屋が知恵を搾った

 男は近くの庄屋の家に案内してもらった。庄屋の名前は高田村の助左衛門。
「拙者は米の出来具合など見てまわっておる。この旱魃(かんばつ)で百姓たちは食うに困って、夜逃げや親子心中が後を絶たないというじゃないか」
「そう言われましても・・・」
「そうかな。ここに案内してくれた二人は、あの大川の水さえ使えればと言っておったが・・・」
 それまで、単なる物好きの素浪人の話しとして聞いていた助左衛門が、改めて座りなおした。


吉井町の北側を流れる新川

「ですがお侍さま。筑後川から水ばどげんして汲み上げるとですか」
「上流から水を引いてくればよかろう?」
「そんな無茶な。上流にはいくつもほかの村がありましょうが。反対さるるに決まっちょります。むかしからそうでした」
「そんな呑気なことを言っている場合でもなかろうに」

大石から高田まで、けっこうな勾配だ

助左衛門が日頃から懇意にしている夏梅村の庄屋次兵衛を訪ねると、既にそこにも例のわけあり浪人が現れたと言う。頭を抱え込む次兵衛に対して、浪人は「やってみなければわからんだろう」と言い残して立ち去ったという。
 翌日、助左衛門と次兵衛はほかの庄屋3人にも集ってもらった。3人とは、清宗村の平右衛門、今竹村の平左衛門、菅村の作之丞である。いずれも村境を接しているむかしからの庄屋仲間であった。
 しかし、5人がありったけの知恵を絞っても、今度の危機を脱出する方法は編み出せない。発想の転換をと言い合ったが、議論は空回りするばかりだった。そこに、また昨日の浪人が姿を見せた。
「あれから、豊後との国境(くにざかい)まで行ってきた。大石村から高田村までだと、けっこうな勾配があったぞ。あそこからだったら、水もよく流れるんじゃないか」
 浪人は視察の結果に満足しているようで、庄屋たちには理解できないことを喋った。

設計書ができた

「もしわしの考えに賛成するなら、おまえらが困難だと決め付けている大石からの水道造りに協力してもよいが・・・」
 男は筑後川の水を農業用水として本気で取り込む気らしい。
「お侍さまが言うようなことが本当にできるなら、私らは何でもしますですよ。この命だってさしあげますよ」


南北新川への分岐点「角間の天秤」

「おまえらの命をいただいたって飯の足しにもならん。それより、計画書を作れ。それをお城に出すことだ」
 男は、勝手に喋って、勝手に出て行った。その日を境に、五人の庄屋の計画書作りが始まった。男は、気軽に「できる」と言ったが、いざ藩に提出する計画書となると、頭で考えるだけのものでは心もとない。雑木林や竹薮をぬいながら、農民を動員して距離を計り、土質を検査した。やっと計画書ができ上がると、東隣りの金本村や末吉村からも参加させてくれと申し出てきた。
「命がけの事業ぞ。申請者は多ければよいというものでもない。結束が危なくなる」
 助左衛門は彼らの申し出を断った。だが、お城との接触に当る大庄屋の田代又左衛門は、「川べりの庄屋が一致結束しなければ願いは成就しない」と説いた。結局助左衛門を含めて13人の庄屋が計画書に押印し、設計図を添えて久留米藩の郡奉行にあげることとなった。

命をかけます

何かことを起こそうとすると必ず抵抗勢力が頭をもたげるもの。計画した用水路の上流域にいる庄屋たちが「もしそこで大水が出たら、被害を蒙るのは俺たちだ」と言って反対した。
 13人の庄屋は連盟で、反対する庄屋に誓約書を書いた。
「・・・工事を施工して万一損害あれば、我らが極刑に処せられても異存はない」と。命をかけると啖呵をきられたのでは、いかなる反対論者も逆らえなくなってしまった。
 設計・計画書を受け取った久留米城では、生葉(いくは=筑後川南岸一帯)の用水路建造を「藩の運営事業」にすることにした。そこで登場するのが、土木技術者としては全国的にも名の知れた普請奉行の丹羽頼母(にわたのも)である。頼母は大工の棟梁(とうりょう)深谷平三郎を連れて現地測定に向かった。
 一方、城内では、、郡奉行(こおりぶぎょう)の高村権内がくすぶる異論者に立ち向かっていた。「計画が失敗した場合、庄屋どもには死んでもらうから、心配ご無用」と説得。その旨、大庄屋を通して助左衛門にも伝えられた。

庄屋さんを殺させない

計画から工事に取り掛かるまで1年と間を置かなかった。計画書に押印した村々から集められる人夫は毎日500人。その食い扶持はすべて庄屋負担である。普請奉行の丹羽頼母指揮のもと、水辺に生えた雑木を伐り、障害物の大小岩を取り除く。工作機械やセメントなど望むべくもない時代、大川に沿って張られた縄を頼りに、幅2間(3.6b)の溝が掘られていった。掘った溝の底には水が染み込まないように石を詰めて粘土で固める。昼夜を違わず大石水道と長野水道の工事が同時に進行した。長野水門建造を指揮していた助左衛門が、ひときわ大声で大工に命じた。「磔(はりつけ)を5基立てろ」と。
 躊躇する大工に、最近では指揮官のような顔をして工事現場をうろつく例の浪人が言った。
「あたりまえだ。あいつらは反対するよその庄屋たちに、出来損なったら命を差し出すと啖呵をきったんだぞ。取水口を開けて水が流れなかったら、奴らの命はその場で終わりさ」
 浪人の捨て台詞(せりふ)をそばで聞いていた総監督の丹羽頼母も、文句一つ言わずただニタニタしているだけ。駆り出された人夫たちからは、「庄屋さんを殺させるな」「もっと早く泥を運べ」の大合唱が響いた。その声は耳納の山に木魂し、筑後川の水面をも波立たせた。

素浪人の正体は…

「さあ、水門をあけるぞ」
 丹羽頼母が大石水門の前に立って号令した。頼母から少し離れて例の浪人が。その後ろに助左衛門など13人の庄屋が固唾を飲んで見守った。
「ドド、ドド、ドー」
 筑後川の入り江から取り込まれた大量の水が、轟音とともに水門に吸い込まれていく。水門を出た水勢は、まるで大蛇が地を這うようにして、直線に延びる用水路を下っていった。大石からの水の到達を見計らって、長野の水門が開けられた。隈上川と合流して倍増した水量は角間(かくま)へ。
 普請奉行の丹羽頼母は、大石水門と用水路の成功を確認して満悦であった。その頼母に例の不思議な浪人が近づいた。
「よかった。これで庄屋たちの決死の努力が報いられる」
 浪人が感慨深げに呟いた。
「もし失敗したら、貴殿はあの5人をにするつもりでござったか?」
 頼母が浪人をからかうように言った。

夜逃げや飢え死にがなくなった

「まさか。百姓のために命を賭ける、お上はそんな働き者の領民を見捨てはしない」
 浪人は大口を開けて笑い飛ばした。この光景を不思議そうに見ていたのが5人の庄屋たち。(写真:高村権内の墓=久留米妙善寺)

「あのお方がどなたか本当に知らなかったのですか? 誰あろう、あのお方こそ名郡奉行と噂の高い高村権内さまですぞ」
 大工の平三郎に耳打ちされて、身の置き場を失ったのが助左衛門たち。高村権内は、藩主から領内での米の収穫高を飛躍させよと命令を受けていたのだった。そこで、実際に農業に携わるものの心を掴もうと、浪人に変装して藩内を巡行した。庄屋には合理的で説得力のある計画書を書かせ、反対する村には自ら出向いて庄屋たちを説き伏せた
「これで、飢え死にや夜逃げする者もなくなるだろう」
 権内は、筑後川の悠々たる流れと、忙しそうに水田へと急ぐ用水路の水を見比べながら、大きく背伸びをした。

 大石から長野まで2,970b、長野から角間(かくま=原鶴温泉の対岸)まで846b、角間の天秤で分岐した水道は、南北の幹川を経て、広い台地に網の目のように巡らされた。総延長距離は実に7,395間(13,311b)。これが寛文年間から今日まで、330年をかけてできあがった用水路の到達点である。その基礎部分を成し遂げた工事期間といえば、わずかに60日であった。駆り出された人夫は延べ15,259人、用水路のために提供された土地が6町歩(6ha)というから、現代の土木工事からは想像もつかない。(完)

 わずか330年前まで、ここが不毛の台地であったとは想像もできない。それが今では日本有数の米どころとなった。人工河川である南北の新川には、溢れんばかりの清水が音をたてて流れている。新川から枝分かれした小川は、まるで毛細血管のように縦に横に張りめっぐらされた。写真は、夏梅村の田植え後の風景である。
 いまでは土木機械や資材が豊富で、コンピュータによる設計技術も幅を利かせるようになった。それでも、これだけの灌漑工事を成し遂げるには何百、何千億円の税金と、3〜4年の歳月をかけなければ達成できないだろう。
「あのときは、どうしてできたの?」と疑問が飛んできそう。それは、あれだけ堅固な城を作る普請奉行の土木技術に加え、村には献身的な指導者がいたからだ。加えて極貧の世界から脱出したいと願う農民(労働力)が加わった。彼ら三者が揃い踏みして初めて不可能が可能になったのではなかろうか。そして何より、「成功しなけりゃ、庄屋の命はないぞ」の脅し文句が効いたのかもしれないな。
 こんな話、地元の子供だけでなく、「景気回復のためにはもっと税金を使え」と繰り返す偉い人たちにもぜひ聞かせたい。

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