伝説 五人庄屋 うきは市吉井
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僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。 |
五人庄屋 福岡県うきは市吉井町
浮羽郡吉井町で歴史上の人物はと問えば、大方の人は「五人庄屋」の名前を上げる。「五人庄屋」とは、筑後川南岸の村を仕切る庄屋たちのことである。大むかしからこの地方は、川の水面が低くて農業用水とすることが困難な台地であった。農民はわずかばかりの湿地を求めて畑を耕し、食うや食わずの生活に堪えなければならなかった。 眼下の川は役立たず ときは寛文(1660〜)年間のはじめ頃。この年は雨らしい雨も降らず、井戸も枯れて、人々は飲み水にすら不自由するありさまであった。そんなとき、筑後川の岸辺を一人の男が歩いてきた。男は腰に一本だけ長い刀をさし、竹で作った水筒をぶら下げている。どう見ても、旅を楽しんでいる浪人風であった。 五人の庄屋が知恵を搾った 男は近くの庄屋の家に案内してもらった。庄屋の名前は高田村の助左衛門。
「ですがお侍さま。筑後川から水ばどげんして汲み上げるとですか」 大石から高田まで、けっこうな勾配だ 助左衛門が日頃から懇意にしている夏梅村の庄屋次兵衛を訪ねると、既にそこにも例のわけあり浪人が現れたと言う。頭を抱え込む次兵衛に対して、浪人は「やってみなければわからんだろう」と言い残して立ち去ったという。 設計書ができた 「もしわしの考えに賛成するなら、おまえらが困難だと決め付けている大石からの水道造りに協力してもよいが・・・」
「おまえらの命をいただいたって飯の足しにもならん。それより、計画書を作れ。それをお城に出すことだ」 命をかけます 何かことを起こそうとすると必ず抵抗勢力が頭をもたげるもの。計画した用水路の上流域にいる庄屋たちが「もしそこで大水が出たら、被害を蒙るのは俺たちだ」と言って反対した。 庄屋さんを殺させない 計画から工事に取り掛かるまで1年と間を置かなかった。計画書に押印した村々から集められる人夫は毎日500人。その食い扶持はすべて庄屋負担である。普請奉行の丹羽頼母指揮のもと、水辺に生えた雑木を伐り、障害物の大小岩を取り除く。工作機械やセメントなど望むべくもない時代、大川に沿って張られた縄を頼りに、幅2間(3.6b)の溝が掘られていった。掘った溝の底には水が染み込まないように石を詰めて粘土で固める。昼夜を違わず大石水道と長野水道の工事が同時に進行した。長野水門建造を指揮していた助左衛門が、ひときわ大声で大工に命じた。「磔(はりつけ)台を5基立てろ」と。 素浪人の正体は… 「さあ、水門をあけるぞ」 夜逃げや飢え死にがなくなった 「まさか。百姓のために命を賭ける、お上はそんな働き者の領民を見捨てはしない」 大石から長野まで2,970b、長野から角間(かくま=原鶴温泉の対岸)まで846b、角間の天秤で分岐した水道は、南北の幹川を経て、広い台地に網の目のように巡らされた。総延長距離は実に7,395間(13,311b)。これが寛文年間から今日まで、330年をかけてできあがった用水路の到達点である。その基礎部分を成し遂げた工事期間といえば、わずかに60日であった。駆り出された人夫は延べ15,259人、用水路のために提供された土地が6町歩(6ha)というから、現代の土木工事からは想像もつかない。(完) わずか330年前まで、ここが不毛の台地であったとは想像もできない。それが今では日本有数の米どころとなった。人工河川である南北の新川には、溢れんばかりの清水が音をたてて流れている。新川から枝分かれした小川は、まるで毛細血管のように縦に横に張りめっぐらされた。写真は、夏梅村の田植え後の風景である。 |