伝説紀行 鷲の子 朝倉市(朝倉)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第063話 02年06月09日版
再編集:2011年07月03日 2018年01月28日
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。
鷲の子

福岡県朝倉町


下古毛(しもこも)の大楠

 今回お話の舞台となる武蔵村(ぶぞうむら)(現筑紫野市)と長淵村(ながふちむら)朝倉町)は国道386号線の延長線上に位置する。街道を挟むように北には筑紫山地が、南を筑後川が流れている。
 お話は、天高く飛ぶ大鷲が、仏との約束を忘れた者への懲罰として赤ん坊を浚うというすさまじいもの。そして、鷲に浚われた赤ん坊が成長して・・・

我は見附丸

「おーい、ワシの子。そこの手毬(てまり)投げてくれ」
「俺はワシの子なんかじゃねえや、見付丸(みつけまる)っていうんだ」
「ばってん、うちの父ちゃんはおまえのことをワシの子ち言いよったぞ」
「俺は人間の子供たい」
 見付丸は、自分の名前をめぐって遊び相手の高善と掴み合いになってしまった。もう何百年もむかしの筑後川のほとり、長淵村(現在の朝倉町長渕地区)でのこと。その夜見付丸は父親の五平に質した。
「父ちゃん、なして俺はワシの子なんじゃ?」
「誰がそげなことを? おまえはれっきとした父ちゃんと母ちゃんの子供たい」
「ばってん、みんなそげん言いよる」

鷲が運んだ

 父にはっきり否定されても、気がかりで仕方がなかった。そこでさらに詰め寄ると、五平も観念して見付丸の出生の秘密を明かした。
「おまえが生まれて1年も経たない頃だった。ある日、長淵の南淋寺の和尚さんが下古毛の大楠の枝に置き去りにされている赤ん坊を見つけなさった。和尚さんは、その赤ん坊をわしら夫婦に預けられた」
「なんで、俺はワシの子なんじゃ?」

「村の衆の噂だと、大きな鷲が赤ん坊を入れた揺り籠をくわえて飛んできて、楠の木の枝にぶら下げていったんじゃと。見付丸の名前は、どこまでも見渡せる高い木の上で見つかったからと、和尚さんがつけなさった」

ルーツ捜し

「嫌じゃ、俺は鷲の子なんかじゃない。父ちゃんと母ちゃんの子供だい」
 見付丸はとうとう泣きだしてしまった。それでは実の親は何処に? 見付丸は南淋寺の住職に尋ねたが、父の話以上のことは話してくれなかった。
「そうじゃ、隣村にいきさつを知っている者がいる、と聞いたことがある」
 和尚に言われるままに、長淵村の伊助爺さんを訪ねたが、3年前に亡くなっていた。足どり重く帰りかけた見付丸を隣りの婆さんが追いかけてきた。


南淋寺

「坊や、役に立つかどうかわからんが、伊助がまだ元気な頃に聞かされた話を思い出したで・・・」
 婆さんが話す一言一句を聞き漏らすまいと、見付丸は耳を傾けた。

子授け祈願

 もう15年も前のことになろうか。行商の途中伊助は武蔵村のある金持ちの家に泊めてもらったことがある。主人の藤監代(とうかんだい)夫婦は、結婚して十数年たつというのにいまだ跡継ぎに恵まれないで悩んでいた。


藤監大ゆかりの武蔵寺の藤棚


「それでは長淵村のお薬師さんにお参りしたら」と伊助が勧めた。監代夫婦は豊後街道を東に、眼前に横たわる大川(筑後川)の岸辺に建つ南淋寺の薬師如来さまに額ずいた。
「お願いです。わたしらに子供をお授けください。もし願いを叶えてくださるなら、私はどこにも負けない立派なお堂を寄進いたしますゆえ」

赤ん坊を浚う

 南淋寺へのお参りが功を奏してか、間もなく40歳に達しようとする監代夫人が妊娠し、翌年には玉のような男の子を産み落とした。可愛くて仕方がない赤ん坊に気をとられるあまり、監代はつい南淋寺に祈願したときの約束ごとを忘れてしまった。
 そんなある日、庭で子守りをしていて、ちょっと目を話した隙に赤ん坊の姿が見えなくなった。監代は村人を総動員して赤ん坊を捜したがとうとう見つからなかった。
「藤監代というお人が南淋寺さんへの約束さえ守っていれば、赤ん坊が浚われることもなかったろうにと、村の人は同情した」
 伊助から聞いた話を伝え終わると老婆は、いかにも気の毒そうな顔をして見付丸を見送った。

少年の一人旅

 見付丸は本当の両親に会いたくなった。父の五平も決心して息子を「親探し」の旅に出すことにした。
「よいか、見付丸。もし武蔵村でおまえの(とっ)つあんや(かか)さんを見つけたら、これを見せろ。何よりの証拠になるはずじゃ」
 渡されたのは赤子用の着物だった。それは拾われたとき見付丸が着ていたもの。早朝出立した少年は、比良松(朝倉町)から三奈木(甘木市)を経て太宰府へ。山坂を越えて武蔵村にたどり着いたのは翌日の昼過ぎであった。一軒一軒民家を尋ねて歩いた。また夜がきて、大きなお寺の軒下で夜を過ごした翌朝、境内を掃除する婦人からそれらしい人の話を聞いた。

実父は長者だった

 訪ねたところは大きな屋敷。物貰いと思って見付丸を追い返そうとする使用人を、主人らしい初老の男が制した。
「もしかして、あなたがわたしの父親ではあるまいかと、長淵の里から訪ねてまいりました」
 用件を聞いて主人は小首を傾げながらとりあえず玄関に案内した。そこで見付丸に見せられた証拠の品。
「これは、その時赤ん坊に着せられていた合せの着物です」
 口を真一文字に閉じたまま主人は目の前の少年と着物を見比べた。
「忘れてなるものか。ようやく恵まれた自分の子供の顔をひと時も忘れたことはなかった。その目、その唇、妻との間に生まれた子供に相違ない。して、何故に今ごろ? どうしてここが?」
 監代は、嬉しさをこらえるようにして、次から次へと気になることを尋ねた。

約束守れと言い残し

 父子の名乗りを済ませた二人は抱き合って泣いた。
「お母さまにも会わせてください」
「残念じゃ、おまえのお母さんは去年の暮れに流行り病で西方に旅たった。せめてきょうまで生きていて欲しかった」


 父子は抱き合ったまま、同じ布団で眠った。そして翌朝、見付丸は育ての両親が住む長淵の里へと帰っていった。監代の「わしの跡を継いでくれ」との切なる頼みを振り切って。
「お父さま、お願いがあります。どうか南淋寺のご本尊さまにお約束されたことを果たしてください」のひと言を残して。涙ながらに見送る監代は、見付丸が言い残した言葉の意味を解釈しようと一生懸命であった。写真:長淵村の山王社
 その後、南淋寺には周囲の者が目を見張る豪華な本堂が建設された。だが、その寄進した人の名前は誰にも知らされなかったとか。
 当時の南淋寺は、筑後川のすぐ岸辺にあったが、その後毎年襲う洪水を避けて、桂川を遡った現在の山裾・八坂に移された。(完)

 朝倉の町並みから桂川に沿って北に2キロほど柿畑の中を進むと、目指す南淋寺がある。階段を昇り境内を見渡せば、まずお地蔵さんの行列に圧倒される。お一人お一人の表情が豊かでつい時の経つのを忘れて見入ってしまった。
 ご住職の奥さまにお願いして特別にご本尊を拝ませてもらった。作者があの有名な伝教大師(最澄)と聞いて恐れ入り、思わず手を合わせた。
 続いて武蔵村の中心・武蔵寺を訪ねる。福岡の奥座敷・二日市温泉から九州自動車道の下をくぐってすぐの所。この寺はそのむかし、空海(弘法大師)や最澄が中国留学の際に立ち寄った場所だと聞いたことがある。それほどまでに伝統ある古刹なのだ。なるほど、境内のあちこちに石碑やお堂が建ち並んでいる。そして、「筑紫万葉」に登場する草や花が整然と展示してあった。大むかし、菅原道真や大伴旅人など歴史的人物が訪れ、天拝山の麓の自然を堪能したかと想像するだけで楽しい。今を盛りと咲き誇るアジサイの向こうにお城のように聳える民家が目に入った。「あれが藤監代の屋敷だったりして・・・」なんて馬鹿なことを考えられるのも伝説紀行なればこそか。

    長淵村:成立年代は不明だが、上座郡長淵郷が荘園化したものと思われる。貞和2年(1346年)、長淵から現在の八坂に移建された南淋寺に安置される位牌の銘に、少弐頼尚とその大叔父貞資の後室の名が見え、この地は後室の所領であったと思われる。(角川地名大辞典) 江戸期から明治22年まで、福岡藩領上座郡の村名

    南淋寺:医王山南淋寺。準別格本山。もとは天台宗に属していたが途中真言宗大覚寺派に移った。伝教大師作と伝えられる「薬師如来像(秘仏)」を本尊として祀っている。仏像は国の重要文化財であり、梵鐘は県指定の文化財である。

    武蔵寺:天台宗武蔵寺。7世紀建立と伝えられる。菅原道真が山頂で恋しい都を偲んだという天拝山の麓にある。初夏の大藤棚が有名。

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