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作:古賀 勝

第060話 2002年05月19日版
再編集:2016年9月25日 2017.04.09

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 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢(とし)居所(いばしょ)なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしばだ。だから、この仕事をやめられない。

子授け観音

八波長者の娘

佐賀県鳥栖市


子授けにご利益があるという太田の観音さん

 筑後川の支流・大木川(だいきがわ)沿いに、子宝を授けてくださる有難いお寺があると聞いた。鳥栖ジャンクションから長崎自動車道を少し西に向かった古墳群が連なるあたりに寺はある。お寺の名前は太田山安生寺(おおたさんあんしょうじ)。檀家を持たないいわゆる祈祷寺である。
「千葉の農家に嫁にやった娘に子供ができず肩身の狭い思いをしておりましたが、こちらの観音さまにお参りしたら、すぐに孫が生まれました。だから、お寺に恩返しち思いまして世話をしております」と、お寺をお守りしている女性が語ってくれた。

長者の娘の出戻り

 奈良時代。肥陽の国の基肄郡(きいごおり)八波(やつなみ)と名乗る豪の者が住んでいた。人々は、彼のことを「八波長者(やつなみちょうじゃ)」と呼んだ。
 ある日、長者の娘が乳飲み子を抱いて戻ってきた。娘は2年前に川向こうの梁川長者(やながわちょうじゃ)の長男に嫁にやった美津であった。
「駄目だ。おまえは他家(よそ)に行った身、しかも梁川は八波にとって敵ではないか。敵の人間を匿ったとなれば、家人はもとよりわしに味方してくれる周辺の豪族に示しがつかぬ」
 八波と梁川は、美津が輿入れするまではすこぶる良好な関係にあった。ところがこの2、3年の日照りで、両者には千歳川(筑後川)の水を巡って争いが絶えなくなっていた。そんなとき、百姓どうしの争いから、両家は軍隊まで仕立てて大掛かりな戦争に発展してしまった。実家と嫁入先の板ばさみになった美津は、ついに梁川から離縁状を突きつけられ、赤ん坊を連れて出戻ってきたというわけだ。

実父にも袖にされ

「お父上、梁川を追われた私にはもう行くところがありません。ここにおいてください」
 涙ながらに訴える娘に父は冷徹であった。
「駄目なものは駄目だ。早く赤ん坊を連れて出てゆけ!」
 
いったん言い出したら後には引かない父の性格をよく知っている美津は、かがり火で照らされる門を出て暗闇の世界へ。お腹をすかして泣き叫ぶ赤ん坊をあやしながら、行く当てもなく大木川を伝って川上に向かった。梁川を追われて以来美津は何も食べておらず、赤ん坊に乳首を宛がっても一滴のおっぱいも出なかった。
「オギャ‐ッ、オギャ‐ッ」
 周囲に人家もなければ人もいない、そんな原野で赤ん坊の力のない泣き声だけが響いた。

改心した父が後を追う

「ご当主さま、あれではお嬢さまがかわいそうです。叱られることを覚悟で、数人の家来にあとをつけさせました」
 
筆頭家人の岩戸乃輔が長者に申し出た。さすが何代にもわたって主人を守ってきただけある。長者が悩んでいることを先取りしてくれたのだ。
「わかった。わしも人の親。いったんは冷たく言ったが、目にいれても痛くない一人娘だ。ましてや、あの赤ん坊は神さまがくださった初孫じゃないか。もう誰に何と言われようとかまわぬ。いますぐ美津を連れ戻してくれい。いや、わしもいっしょに行く。離縁の原因を作ったのはわしなのじゃ、詫びなければならんのはわしじゃった」
 長者の両目は真っ赤に腫れあがっていた。

仏さまにこの身を預けよう

屋敷での父の心変わりを知る由もない美津は、空腹で泣く気力さえ失った赤ん坊を抱いて、さまよい歩いていた。美津は、虫の息にまで衰えた赤ん坊に頬ずりしながら泣きじゃくった。
「本来ならおまえは梁川の跡取りなのです。大きくなったら家のため、人のために大きな仕事をしなければならなかったのに・・・。でも、お母さんにはどうしてやることもできなかった。かくなる上は、仏さまに母子(おやこ)の命をお預けいたしましょう」


美津が赤ん坊を抱いて身を投げた井戸

 意を決した美津の足どりが早くなった。気付かれないようにあとをつける家来が、美津の姿を見失った。このまま屋敷に戻れば、打ち首を覚悟しなければなるまい。
「お嬢さま〜」
「お美津さま〜」
 家来たちの美津を呼ぶ声が谷間を抜け、西の山に木魂した。そのとき、彼方に光の筋が・・・
「あれはなんだ!」
「赤ん坊の泣き声も聞こえる」
 ぬかるみと雑草を掻き分けて家来がたどり着いたのは、どこにでも見かける堀井戸だった。井戸のそばには美津のものとわかる草履が揃えてあった。オレンジの光はその井戸の中から立ち昇っている。
 恐る恐る井戸の中を覗いた家来の目がくらみ、のけぞった。それほどまでに井戸の中の光は強烈であった。目をこすりながら身を乗り出した家来の目に飛び込んできた光景とは・・・
 赤ん坊を胸に抱いた観世音菩薩であった。菩薩のお顔は、見失った美津にそっくりであり、抱かれている赤ん坊は確かに長者の孫であった。

娘の供養に建てたのが太田の観音堂

八波長者が駆けつけたときには、井戸からの光も赤ん坊を抱いた観世音菩薩の姿も消えていた。
「堪忍してくれ美津、そして可愛い孫よ。自分の立場しか考えなかったわしが悪かった。湧き水のごとく清らかな心の持ち主であるそなたは、仏に召されたのじゃ。仏さまに弟子入りが認められたのじゃ。わしは生涯かけてそなたと孫の供養に励むゆえ、許してくれい」


写真:先代の住職像

 家人の目もかまわず、長者の号泣は止まらなかった。長者は、美津と赤ん坊が身を投げた井戸の上に観音堂を建てた。その後、お堂には母子に同情する人のお参りが絶えなくなった。人々は、赤ん坊を抱く観音さまに「赤ん坊をお授けください」「乳が出ますように」と祈願するようになり、いつの頃からか「子授け観音」の別名がつけられたということ。(完)

案内してくれたご婦人が、寺のことを詳しく話してくれた。
「数年前に高齢でなくなった庵主さまは、戦前、戦地に赴く若者の無事を祈って鳥栖駅に通い続けられました。その都度、『生きて帰れよ』の願いを込めてお守りを渡されたそうです。終戦後、復員した兵士はそのご恩を忘れずに、いまでも全国からお参りが耐えません」


写真は、太田観音

 人間、誰もがリレー走者の一員だ。けっして第一走者でもなければアンカーでもない。生を受けて生きていること自体が次の世代へバトンタッチする役目を担っている。生あるもの、親から受けた命を確実に次代にタッチしなければならない。学校で勉強し、社会で実践することもまた、次代へ引き渡すバトンの中身を充実させるための行動なのだ。
 太田の観音さまに子授けを願う人々の心の中は、きっとそのような純粋な生き方を願望してのことだろう。無神論者を標榜する筆者も、観音像の前に額ずいたときは、心からそう思ったものである。
 久しぶりに安生寺を訪ねた。2年前に就任されたという庵主さまが出迎えてくれた。丁度安産祈願の最中で、こちらも仲間入りして、ちゃっかり健康を祈ってもらうことにあいなった。
秘仏で視界に入らない観音さまを拝むことはできない。ご開帳は再来年だそうで、それまでお美津さん生き写しの仏さまにお目にかかれないわけだ。(2008年11月18日)

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