伝説紀行 念仏踊り 久留米市城島
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僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。 |
白拍子の鎮魂 福岡県久留米市(城島)
今回は、筑後川下流域に伝わる踊り念仏について。1000年以上もむかし、都で庶民の尊敬を集めた空也上人が作った和讃と念仏踊りが、京都の白拍子によってもたらされたというもの。その念仏は、明治の初めまで人々によって受け継がれ、現在も踊りに使った祭具が保存されているとか。 見知らぬ白拍子が ときは、平家一門が壇ノ浦に沈み、源頼朝勢が平家追討のため血眼になっていた文治元年(1185年)の初夏。筑後川沿いの江島の浜で倒れている女を、通りかかった農夫の伴助が助けた。伴助は、女を背負って家に帰り女房のタミに温かい 壇ノ浦に沈む父 「そうですか、どうりで初めて会うたときから、垢抜けしたおなごし(女の人)と思うとりましたたが・・・。それがなぜこげな遠か筑後まで?」
「はい、父を捜しております。父は、平家の悪七兵衛景清さまと申される侍大将に仕えておりました。平家が都を追われると、父も主人のお供をして都を去り、それきりでございます」 空也上人に諭されて そこでかねてより信仰していました東山にある六波羅寺の住職をお尋ねしました。
「哀れよのう。それではご本尊さまにお父上のおられるところを尋ねて進ぜよう」写 *六波羅蜜寺…応和3(963)年、空也上人が京都加茂川の東側に創建した寺のこと。平清盛が六波羅に邸宅を構えた頃より、一門はこぞってこの寺に信仰が厚かった。 小菊は六波羅寺を出ると、空也上人のお告げに従って、筑紫の国を目指した。写真は、空也上人像 逃げる主従 「さようでしたか。して、あなたのお父上の名前は?」
「このお方は平家の武将悪七兵衛景清さまであられる。わたしは下男の平太と申す。ご主人さまは壇ノ浦で、それは大変な働きをなされたのだが、武運は平家に味方せず、敵の流れ矢で視力をなくされてようやくここまで逃げてまいりました。お慈悲でございます、どうか見逃してくだされ」 主人の身代わり 話を聞いて同情した漁師は、時が過ぎるまでこの場に隠れているようすすめて立去った。だが、漁師は源氏方に密告し、数十人の追手兵が小屋に迫った。 田植えの跡に生き埋め 「やーや、源氏の虫けらども、我こそは平家の侍大将悪七兵衛景清なり。この首欲しければどこからなりとかかってまいれ」
ぬかるみの中で平太はもがいた。血の臭いをかいで寄ってくる蛭(ひる)や薮蚊(やぶか)が身中にたかった。夜になると気味の悪い長蛇までもが絡みつく。 夜な夜な恨み節 それからというもの。平太が生き埋めにされた田んぼでは、田植え中の娘が突然高熱で倒れたり、稲刈り中の農民が雷に打たれて即死する事故が相次いだ。シトシト降る雨の夜などは、田んぼの周辺に青白い鬼火が燃え盛り、どこからともなく恨めしそうな男のうめき声が聞こえた。 亡霊に和讃を捧げる 「哀れな父上。して、父が生き埋めされた田んぼは何処?」 亡父の霊に捧げる小菊の一世一代の舞いであった。 「踊り念仏」を求めて城島町の教育委員会を訪ねた。だが、折悪しく在席者の中にそのことを知っている人がなく、縁の九品寺廃寺跡を捜すのにも苦労した。地図を片手に県道を南に、大木町との境の田んぼの隅にその廃寺跡を示す標識が立っていた。地名は「江上」とあるから、こここそ白拍子が都からたどり着いた場所に相違ない。なるほど、張り巡らされたクリークと一面の水田を見ていると、田植え後に堺の平太が生き埋めにされ、蛭や薮蚊に血を吸い取られたという「吸い殺し田」の雰囲気は十分に感じられた。 |