伝説紀行 念仏踊り 久留米市城島


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第048話 2002年02月24日版
再編:2018.07.22
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

白拍子の鎮魂
 筑後の踊念仏

福岡県久留米市(城島)


念仏伝承、九品寺廃寺跡(城島町)

 今回は、筑後川下流域に伝わる踊り念仏について。1000年以上もむかし、都で庶民の尊敬を集めた空也上人が作った和讃と念仏踊りが、京都の白拍子によってもたらされたというもの。その念仏は、明治の初めまで人々によって受け継がれ、現在も踊りに使った祭具が保存されているとか。

見知らぬ白拍子が

 ときは、平家一門が壇ノ浦に沈み、源頼朝勢が平家追討のため血眼になっていた文治元年(1185年)の初夏。筑後川沿いの江島の浜で倒れている女を、通りかかった農夫の伴助が助けた。伴助は、女を背負って家に帰り女房のタミに温かい(かゆ)を作らせた。
 元気を取り戻した女が、少しずつ身の上を話し始めた。
「私は堺(大阪府)に生まれた白拍子の小菊と申します
*白拍子:平安末期から鎌倉時代にかけて行われた歌舞。また、これを舞い踊る遊女。

壇ノ浦に沈む父

「そうですか、どうりで初めて会うたときから、垢抜けしたおなごし(女の人)と思うとりましたたが・・・。それがなぜこげな遠か筑後まで?」


城島の浜

「はい、父を捜しております。父は、平家の悪七兵衛景清さまと申される侍大将に仕えておりました。平家が都を追われると、父も主人のお供をして都を去り、それきりでございます」
「おかわいそうに。平家は壇ノ浦で全滅したと聞いておりますが・・・」
 伴助とタミは、小菊の話に同情して目に涙を浮かべた。
「ところが、最近になって毎晩のように父が夢枕に立つのでございます。『いま西方で生と死のをさまよっておる』と」

空也上人に諭されて

 そこでかねてより信仰していました東山にある六波羅寺の住職をお尋ねしました。


京都の六波羅蜜寺

「哀れよのう。それではご本尊さまにお父上のおられるところを尋ねて進ぜよう」
 住職は仏壇に置かれた空也(くうや)上人の木像からお告げを得たと言い、「お父上は筑紫の国で源氏の兵に殺され、いまは亡霊となって付近をさまよっておられる」と教えてくれました。ご住職から、父の霊を慰めるためにと、空也上人が作られた和讃と魔よけの面と、それに鈴をいただきました。

*六波羅蜜寺…応和3(963)年、空也上人が京都加茂川の東側に創建した寺のこと。平清盛が六波羅に邸宅を構えた頃より、一門はこぞってこの寺に信仰が厚かった。
*和讃…讃嘆に起こり、平安時代から江戸時代にかけて行われ、七五調風に句を重ね、親鸞は四句一章とした。源信の「極楽六時讃」「来迎讃」、親鸞の「三帖和讃」などが有名。(広辞苑)
*空也…平安中期の僧。諸国を遍歴して、常に市井の立場に立ち、阿弥陀仏の名号を唱えた。その後、京都東山に六波羅蜜寺を建立する。

 小菊は六波羅寺を出ると、空也上人のお告げに従って、筑紫の国を目指した。写真は、空也上人像

逃げる主従

「さようでしたか。して、あなたのお父上の名前は?」
「堺の平太と申します」
「あの平太さまがあなたのお父上でしたか」
「父のことをご存知で? 父がいまだ生きているとは思えませんが・・・、教えてくだされ」
 伴助は、平太のことについて、知っている限り事細かに話し始めた。安徳幼帝がおばば上に抱かれて壇ノ浦の海中に沈んだそのとき、栄華を誇った平家一門は滅亡した。文治元年(1185年)2月であった。勝った源頼朝は、平家の残党刈りを全国に布令した。
 葦の新芽で筑後川べりが緑の絨毯に覆われる季節、川辺の舟小屋にボロボロの鎧兜を身につけた位の高そうな盲目の武士と、お供らしい粗末な身なりの小男が潜んでいるのを仕事帰りの漁師が見つけた。漁師がわけを訊くと、小男が応えた。


葦が繁る江島付近の筑後川べり

「このお方は平家の武将悪七兵衛景清さまであられる。わたしは下男の平太と申す。ご主人さまは壇ノ浦で、それは大変な働きをなされたのだが、武運は平家に味方せず、敵の流れ矢で視力をなくされてようやくここまで逃げてまいりました。お慈悲でございます、どうか見逃してくだされ」

主人の身代わり

 話を聞いて同情した漁師は、時が過ぎるまでこの場に隠れているようすすめて立去った。だが、漁師は源氏方に密告し、数十人の追手兵が小屋に迫った。
「もはやこれまでじゃ。平太よ、よくこれまで私に仕えてくれた、礼を申す」
 景清は、に包んでいた短刀を取り出すと、刃先を自らのわき腹に向けた。
「お待ちください、旦那さま。これから平家を建て直される大事なお方を死なせるわけにはまいりません。そうです、この平太めが身代わりになりますゆえ、お着物と武具をすべて脱いでください」
 平太は命令するように主人から着衣を剥ぎ取ると、景清には粗末な平太の着物を着せた。
「早く、早く!」平太は小屋の隅にあった樫の棒を杖代わりに持たせ、追手とは反対側に逃がした。

田植えの跡に生き埋め

「やーや、源氏の虫けらども、我こそは平家の侍大将悪七兵衛景清なり。この首欲しければどこからなりとかかってまいれ」
 主人が遠ざかるのを確めた後、平太は追手の前に立ちふさがった。勢いづいた追手は束になってかかり、間もなく平太を捕らえた。捕まえてみれば、平家の武将とは似ても似つかぬ小者であった。追手の連中が怒ること怒ること。このままでは気がすまぬと、平太を丸裸にして、ぬかるんだ田んぼに埋めて立去ってしまった。


伝 空也上人作「西院河原地蔵和讃(さいのかわらのじぞうわさん)
久留米市鷲塚墓地に掲示

 ぬかるみの中で平太はもがいた。血の臭いをかいで寄ってくる蛭(ひる)や薮蚊(やぶか)が身中にたかった。夜になると気味の悪い長蛇までもが絡みつく。
「ヒー、ヒー」
 平太は声にならない声を発し続けた。そんな地獄が7日間も続き、やがて事切れた。

夜な夜な恨み節

 それからというもの。平太が生き埋めにされた田んぼでは、田植え中の娘が突然高熱で倒れたり、稲刈り中の農民が雷に打たれて即死する事故が相次いだ。シトシト降る雨の夜などは、田んぼの周辺に青白い鬼火が燃え盛り、どこからともなく恨めしそうな男のうめき声が聞こえた。
 村人は、この変事が平太の祟りだと恐れ、亡霊を慰めるためにいろいろな供養を試みたが効果はなかった。平太が生き埋めにされた田んぼのことを誰言うとなく、「吸い殺し田」と呼ぶようになった。
 村中が平太の亡霊に悩まされている丁度そのとき、平太の娘と名乗る白拍子の小菊が江島の里にやってきたのであった。

亡霊に和讃を捧げる

「哀れな父上。して、父が生き埋めされた田んぼは何処?」
 伴助は早速小菊を吸い殺し田に案内した。小菊は着衣の汚れなどお構いなしにその場に泣き崩れた。ひとしきり泣いた後の小菊は、人が変ったように目を川下に向けて立ち上がった。そして、六波羅蜜寺で住職に貰った面をつけ、鈴を振って和讃を唱えながら舞った。
「三界広けれど 来たりし留まる処なし。四生の形は多けれど、生じて死せざるも体もなし。三界すべて無常なり、四生いずれも幻花なり・・・」

 亡父の霊に捧げる小菊の一世一代の舞いであった。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」
 取り囲んだ村人たちの間から、期せずして念仏の合唱が起こった。そして、このときをもって、村を覆っていた平太の呪い節も消え去った。
ずっと後に、美作(みまさか)入道永源という領主が、供養のために江上の里に来て「西方山九品寺」を建てたそうな。

 白拍子の小菊が亡くなった後、村人たちは「操り人形座」をつくり、祭りや葬式などで踊り念仏や「口説き・語り」をして死者を慰めるようになった。この風習、明治の頃まで続いていたというのだが。(完)

「踊り念仏」を求めて城島町の教育委員会を訪ねた。だが、折悪しく在席者の中にそのことを知っている人がなく、の九品寺廃寺跡を捜すのにも苦労した。地図を片手に県道を南に、大木町との境の田んぼの隅にその廃寺跡を示す標識が立っていた。地名は「江上」とあるから、こここそ白拍子が都からたどり着いた場所に相違ない。なるほど、張り巡らされたクリークと一面の水田を見ていると、田植え後に堺の平太が生き埋めにされ、蛭や薮蚊に血を吸い取られたという「吸い殺し田」の雰囲気は十分に感じられた。

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