伝説紀行 ゴッテどん 朝倉市(杷木)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第043話 2002年01月20日版
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

脛傷人間を救う神
若市天神の猿田彦

原題:ゴッテどん

福岡県杷木町


ゴッテどんが自力で運んだという巨石(碑)

 朝倉地方は昔話や伝説の宝庫だ。悠久の大河・筑後川がもたらす財産なのか、はたまた、古い街道に面していたためにむかしから多くの文化を吸収してきた賜物なのか。いやいや、ここは大むかし、飛鳥時代に斎明天皇が仮宮を造られた古都だからと諸説入り乱れ。
 朝倉街道(豊後から朝倉に向かう道)から北へ少し入り込んだ山裾に、周囲が柿畑ばかりの若市という集落がある。村の中央には天満宮の小さなお社が建っていて、境内に「猿田彦(さるたひこ)大神」と刻まれた重厚な石碑が祀ってある。土着した「庚申(こうしん)」信仰の象徴なのだ。
 クレーン車もなかった時代、ざっと1d半もありそうな巨石をいったい誰がいつ頃、どこから運んできたのやら。それが知りたくて町の物知り博士を訪ねた。

身中の虫

話は江戸時代中頃に遡る。筑前の国・若市村(現在:朝倉郡杷木町大字若市)では、待ちに待った「おこしんさま」の祭りがやってきた。つまり庚申の日である。当番の家には、村の男衆が集って念仏を唱え、酒盛りを始める。おかみさんたちが総動員で作ってくれたご馳走をつまみながら、後継者のこと、若者の結婚話など話は尽きない。何もこんな夜更けにと思えるようなことを真面目に論じ合っている。


写真は、若市天満宮

 それもこれも、庚申(かのえさる)の日に禁忌行事を営むことで過去に犯した罪から免れようとする信仰の一つなのだ。人間誰もが一つや二つ脛(すね)に傷を持っているもの。ましてや助平が売り物の男どもには、絶対に女房に知られたくない“実績”があるはず。どんなにだんまりを決め込んでいても、どんなに悪さ仲間で示し合わせようとも、体の中に潜む「三尸(さんし)」の虫がお見通しなのだ。この三尸さん、何故か60日に一度の庚申の日に体から這い出てきて、天におわす上帝さまに主人の悪行の数々を告げ口するというから始末が悪い。

 三尸から報告を受けた上帝さまは、罪の具合によっては“被告”の寿命を短縮もなさる。そこで、傷持ちの輩(やから)はもう一つ悪知恵を働かせる。日が暮れると仲間同士申し合わせて、仏さまや神さまに灯明をあげ、信仰する猿田彦神(猿の神さま)を拝むことに。そして、三尸が上帝さまに告げ口できないよう一晩中眠らずに見張る。睡魔が襲うと、お互いに励ましあって、またまたくだらない話を繰り返す。こうして三尸が再び自分の体中に戻る夜明けを待つのである。
「それにしてもくさい、猿田彦の神さんのお陰で、あんこつもばれんで家庭平和が保てとる。庚申の日にお神酒ばあぐるぐらい安かもんたい」

罪滅ぼしの石碑

 そんなこんなのドサクサの中で、若市村の天満宮に「猿田彦大神」の石塔を建てることが決った。それもそんじょそこらにあるちゃちな石塔ではなく、よその村のものがびっくりするような大きなものを、ということになった。
「そげんおっか(大きな)石がどっかにあっちゃろか」
 さあ大変、村中総出で石探しが始まった。あった、あった、案外身近な二軒茶屋のところに。二軒茶屋とは、名前のとおり二軒の茶店が、日田街道(朝倉街道)筋にあったのでそこが地名になった。ありがたい庚申さまに見合う大きな石は、その二軒茶屋の裏の高山(こうやま)の中腹で見つかった。

誰が巨石を運ぶ?

「そいばってん、こげなおっか(大きな)石ば10町(約1キロ)も離れた天神さんまでだい(誰)が運ぶかん?」


ゴッテどんが向こうの山から巨石を運んだ道?

 この巨石、本体部分が1500`、台座だけでも1000`はゆうにある。どうせ飲みながらの談合で決まったこと、発想はいいのだが後先をあまり考えなかったようだ。
 くる日もくる日も男どもが集って、二軒茶屋と天満宮を行ったり来たり。狭いあぜ道をどうして運ぶか、悩みつづけた。
 そんな折、、歳の頃なら30歳ほどの男がどこからともなく流れてきて若市村に住み着いた。男は身の丈が7尺(210a)もあろうかという大男。不動明王のように恐い顔つきで、たいそうな力持ちに見える。そんなごっつい体つきを見て、村の誰かが「ゴッテどん」というあだ名をつけていた。
「そうたい、ゴッテどんに頼んでみゅ」

腹がへっては…

 まず庄屋さんがゴッテどんのところに相談に出かけた。ところが、家の中に灯りはなく、奥のほうでゴッテどんが青い顔をして煎餅布団(せんぺいふとん)に包(くる)まっている。
「病気ですな? どこか具合が悪かと?」
 来客など予想もしていなかったのか、ゴッテどんは飛び起きた。
「あんたは見るからに力持ちのごたるけん、庚申さんの石ばちょっと運んでもらおうち思うてきたばってん、病気じゃ無理ばいね」
 庄屋さんは、あきらめ顔で外に出ようとした。
「待ってくだされ。やらしてください。私は病気じゃありません。ただ腹が減って動けんだけです」
 この男、どうやら肥後あたりから流れてきた元武士らしいが、あまりの大飯食らいが災いして失業の身とか。
「ところで、あんたさん、どのくらい飯ば食べなさっと?」
「はーい、1回に丼飯ば山盛り10杯は食わんと立ち上がれません」
 話がわかれば庄屋さんの顔も赤みを帯びてくるというもの。村中から米を供出させ、ここでもおかみさんたちを動員して握り飯を山のように積み上げさせた。

400貫目を軽く担ぐ

 二軒茶屋に集った村の衆。巨石を囲んで主人公の到着をいまや遅しと待っている。そこに巨体を揺らしてゴッテドンがやってきた。
「ちょいと皆さん、そこどいてんない」
 ゴッテどん、周囲のものを後ろに下げて、「よいしょ」とひと声。400貫目の石を背中に担ぎ上げた。
「そらきた、よいしょ」
 それから1度も休まず、狭い田んぼ道を天満宮まで運び込んだ。一つ運んでもまだ同じ重さの台石が残っている。ゴッテどん、村の衆の「やんや、やんや」の歓声に乗せられて、再び二軒茶屋に戻ってきた。だが今度の石は、びくとも動かない。
「こりゃしもた」
 ゴッテどんはしばらく首をかしげていたが、何を思いついたかさっさと天満宮に引き返した。
「待たんの、ゴッテどん! どこさん行く?」
 村の衆が、困り顔で追いかけてきた。

「腹が減っては戦はできんじゃろうが」
 ゴッテどんは、炊き出し中のおかみさんに頼んで、また鏡餅のように大きなおにぎりを作ってもらった。そして再び二軒茶屋へ。皆の衆が呆れ顔で見つめる中、もう一つの巨石を軽々と担ぎ上げ、小走りで天神さままで運んでいった。

ゴッテどんの墓

 若市の天満宮の境内にある庚申さまの大きな石のいわれはざっとそんなとこ。さて、その後のゴッテどんだが…。記録上は定かでないが、力持ちの評判が評判を呼んで、あちこちの村から声がかかるようになり、お陰で食うに困ることはなくなったとか。歳をとってからも侍時代の教養が役立ち、村人の相談相手にもなって大事にされたそうな。だが、身寄りのないゴッテどんがどこで眠っているのか誰も知らない。
 物知り博士に訊いたら、「おそらくこのあたりの無縁仏の墓じゃなかでっしょかね」だと。二軒茶屋(今の地図には表示されていない)あたりの雑木林の中に散らばっている粗末な墓石群がそうだ。(完)写真:ゴッテどんが住んだ若市集落

 僕が子供の頃までは、庚申祭りが盛んだったような気がする。隣組中から集ったお母さんたちが、白いエプロン姿でかいがいしくご馳走を作っていた。そのおすそ分けをいただこうと、子供たちは家の周りをうろうろしていたもんだ。そんな「庚申さん」のお祭りも、高度経済成長とともに霧消してしまったのか、とんと聞かない。
 もともと庚申信仰の始まりは、中国の道教の守・庚申に由来する禁忌で、平安時代に日本に渡来し、江戸時代に日本中にまん延したものだそうな。
 それにしても、旦那衆の夜更かしのために一生懸命ご馳走を作ってくださるおかみさんたち、本当に旦那の「脛傷(すねのきず)」に気がついていないのかな。おかみさんこそ、実は三尸だったりして・・・・

※若市:江戸期から明治22年までの村名。その後町村合併を繰り返し、現在は杷木町の大字名。杷木はむかし「杷伎郷」と呼んでいた。

その後甘木市・朝倉町・杷木町が合併して「朝倉市」になる。

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